雨と珈琲
「雨」と「珈琲」は、組み合わせることで、魅力が倍になる。
そこに「読書」が入ると、最強かもしれない。
普段はインスタントだけど、気分によってはドリップにする。
(といっても、一つずつ袋に入っているもの)
それはだいたいが雨の日。家にいられる雨の日は、少し特別な気がする。
低気圧は自律神経を乱すことがあるけど、水の音は癒しにもなる。人はそんなふうに複雑なふりをする生き物で、たぶん結局は単純だ。
低気圧のせいで頭痛薬を飲んで、窓をあけて珈琲を楽しむわたしも、例外なくそういう生き物で、朝の頭痛の小さな苦しみはなんだったのだろうと思う。
もうこの世にはいない父親は、お客さんがきたらドリップ珈琲を淹れていた。(同じく一つずつ袋に入っているもの)
父親はシングルで育ててくれたが、モラハラで暴力もあり、わたしたち姉弟の心は大人になってもずっと苦しむこととなるが、ぽつりぽつりといい思い出もあり、父亡き今は、その一握りのいい思い出をたまに引っ張り出して懐かしむ。そう、いいところもあったのだ。
不器用な人だった。人のもてなし方もあまり分かっていない。人のためにはドリップ珈琲を淹れ、自分はインスタント。必ずケーキを用意し、花瓶に大層な花を飾る。
それを見て育ったわたしは、「人が来る時には必ずケーキを用意し、大げさな花を飾る」と覚えてしまい、後にそれが大げさで不自然なことだと身をもって知る。そして人が家に来ること自体、ものすごく嫌になった。
やたらと真面目で律儀な人だった。だから苦しんだんだろうなと思う。
(だからと言って子供への暴力や暴言は許されるものではないが)
遠い記憶へ意識がいくのも、雨と珈琲のせいだ。この組み合わせには、妙な力があると思う。
いい思い出ばかりだと、どれがいい思い出か分からなくなる。灰色の中に点在する白や黄色やピンクを探すのが、たぶん必要なんだと思う。
雨のにおい、温かい珈琲。
遠くで揺れる笹の葉、水の音、吉本ばななの本。
疲れた身体、遠い記憶、鳥の声。
思い出を手繰る仕草は、マーブルチョコの黄色だけを探して食べたり、チェルシーの袋入りからバタースコッチ味だけを探したりするような、そんなのに似ているかもしれない。
ではでは。