Dear もう会わない人
縁を大切にしすぎて、自分が壊れた時期がある。
自分と違う意見でも受け入れすぎて、そのうちに自分の意見がぼやけて、世界がぼやけて、そして何も見えなくなった。
自分の「こうしたい」「こう思う」を見失うということは、船の帆を失うことに近い。目的地へ向かう力はなく、流されていく。あの頃のわたしはどこにも向かっていなかった。
「友達は大事」というコトバは、幼少期から青年期にかけて、あちこちから放たれる矢である。そして縁と友達の境界線は、なかなかに微妙だ。
すっかりその思考に支配された頃のわたしは、気の合わない・全く関わりたくない人達をも大切にしようと懸命だった。執着に近いと思う。
別に好きでもない曲も全力で好きぶったし、元気じゃないのにすごく元気そうにしてみたり、笑いたくないのに笑ったり、興味のない人の恋バナに1週間分のエネルギーを費やしてはしゃいだりした。
無理だ、懸命でないとできなかった。合わないと心で感じているものをナチュラルな気持ちで大切にはできない。そもそも無理なことをしているのだ。むしろ壊れる方へ真っすぐに走っているような状態だと思う。
なにかを妄信することは、一見、意志が強い。
でもそれは、そうすることで自分を支えているような、穴を埋めているような、そんな作業にも近い。
すっかり大人になりきった今、そういう人たちとはやはり会わなくなった。そんな「もう会わない人」が、わたしにはわりといる。
今会ったら逆に気が合う人もいるかもしれないけど、そこに労力を割くよりは、今、目の前のことに時間を使いたい。
情けないことに、いま大切にすべきことすら、危ういときがあるのだから。
もう会わない人、元気ですか。
あの瞬間瞬間はとても楽しんでいたし、学生時代の延長で、ノリだけで十分楽しめた。異常なくらい笑った日もあった。だから、あの頃はありがとう。友達だったのは、たぶん事実だ。
友達は大事。それはそうだと思う。
でも、友達はステージ(状況)によっても変わるものだと、セットで添えてほしい。当たり前のことのようでわかっていない人は多い。
「友達は大事(でも距離感は時々で変わります)」。ああ、むしろ()内の方が大事な気すらする。
そうじゃないから、社会人になって学生の頃の友達と話が合わなくなってきた、とか、結婚した友達となんかしっくりこなくなってきた、とか、そんな風に悩む人が多いんだ。でもそんなのは「パンケーキは幸せそうに見える」と同じくらい、当たり前のことだ。
また会えたとき、しっくりきたらまた一緒にいればいい。ドライだとか冷たいだとか言われることもあるけど、「どんな時期もどんな時も一生一緒」のほうが、正直、狂気や幻想に近い。
何かを大事にしすぎて自分が壊れる時期って、通過儀礼に近いもので、誰でも何かしらあるのかもしれない。人だからこその痛みがある中で、時々、猫や空や、花や空気になりたいなどと現実逃避をしながら生きていく。わたしはそうだったし、今だってたまにそうだ。
もう会わない人。もしかしてあなたも痛かったのだろうか。
知る由もないけど、あの子もあの人も、どうぞお元気で。
おかげで好きな曲ばかり聴いているし、普通なテンションで、あまり知らない誰かの恋話より、本などを読んでいるわたしです。
ではでは。