昔の物売りの生活
古本屋で見つけた『甦る昭和ロマン』(昭和51年)。
昭和レトロの特集本かと思い手にしてみると、戦前昭和を取り上げた内容でした。すでに本の発行から半世紀近く経っており、昭和51年が昭和ロマン時代になっているような気がします。
本の中で、昔懐かしい「街の物売り」が紹介されていました。玄米パン屋、ゆで卵売り、金魚売り、下駄の歯入れ屋、羅宇屋、拡大器売り、今では聞き慣れない生業ばかりで、新鮮ですらあります。どうやら東京の町は、昔にさかのぼるほど、行商や露店という屋外の商人が多かったとの説明があります。
特に気になったのはこちらの写真。ゆで卵が3つで12銭(昭和12年)という安さで売られています。現在だと200円くらいでしょうか。セブンイレブンの味付き半熟ゆで卵は1つ84円、3つだと252円。…今とさほど変わらない?
かなり不安定な稼業なのでしょうが、物売り稼業だけで生活が成り立っていたのか、どんな生活を送っていたのか調べてみたくなりした。
そこで、貧民探訪を手掛かりに調べを進めていくことにします。
明治中期(日清戦争前後)の情報で物売りが中心ではありませんが、今回は貧民ルポタージュの王道である、松原岩五郎『最暗黒の東京』、横山源之助『日本の下層社会』を参考に、知りたい点についてまとめていこうと思います。
さまざまな物売り
まず気になったのは、寺田寅彦『物売りの声』という随筆です。この作品は昭和10年のもので、昔の物売りやその呼び声を懐かしむ内容が綴られています。地域によって異なるでしょうが、昭和10年の時点で呼び声を懐かしんでいる体験から、世の移り変わりの早さに意外性を感じます。
一口に物売りといっても、その実態は様々です。
ここでは『甦る昭和ロマン』が紹介している物売りについて触れておくことにします。
羅宇屋
雁首と吸い口を繋ぐ羅宇部分(竹)のヤニ取り、羅宇通しという挿げ替え作業をしていました。
明治生まれの曽祖父は戦後も煙管を愛用しており、羅宇屋が来ると手入れを頼んでいたいたと母に聞きました。
下駄の歯入れ屋
昔の学生が愛用していた朴の木を素材とした高下駄があり、裏側の歯が差し込み式になっていました。摩滅したら歯だけを交換すれば済むので、刳り歯よりも経済的なことから学生に好まれたのでしょう。この差歯を取り替えるのが歯入れ屋の仕事で、常に取り替え用の板を持ち歩いていました。
以前、下駄の歯入れについて馴染みの下駄屋さんに伺ったことがあります。
歯を差し込む時の接着剤として、おが屑に水を少し混ぜて使用するそうです。
金魚売り
「金魚やー目高ー」と天秤棒で両側に盥を担ぎ、腰で調子をとりながら、街をゆっくりと売り歩きます。夏の風物詩ですね。
玄米パン売り
「玄米パンのホヤホヤ〜」と呼び掛け、大太鼓を叩きながら街を流し売りしていました。玄米パンとは、1個2銭くらいの餡入り蒸しパンです。関東大震災時に精白した米の供給が間に合わず、多くの人が玄米を食しており、その記憶が生々しかったことから、玄米パンの名称になったということです。
また、玄米パン売りが増えたのは関東大震災後で、昭和に入ると徐々に廃れていったようです。
その他、鋳掛屋、笊屋、陶器焼ツギ、文字焼、飴屋、小八百屋、小魚屋と枚挙にいとまがありません。
物売りたちの生活地区
幕末の動乱で江戸から逃げ出した人々が維新後に逆流しましたが、その多くは貧しい人々であり、彼等は東京の至る所に存在していました。物売りたちも社会の下層に属した人々です。
『最暗黒の東京』が発表された明治20年代の東京は、江戸期と変わらぬ生活状態であったと思われます。この頃、神田、日本橋、京橋、芝、赤坂、牛込と貧民エリアは徐々に拡大し、明治30年代以降は下谷、浅草、本所、深川にまとまってゆきます。
物売りが同じ地区に住み続けていたか分かりませんが、彼等が貧民窟に滞在していたことは『最暗黒の東京』から読み取れるので、帝都のスラムの生活を覗いてみることにします。時代は日清戦争前後なので、明治20年代後半と見ておくのが良いでしょう。
帝都の三大スラム
塩見鮮一郎『貧民の帝都』を参考に、各スラムのエリアを囲ってみました。
また、戸数と人口については区役所に届け出されている数字です。
四谷鮫ヶ橋
区域:谷町一・二丁目、元鮫ヶ橋、鮫ヶ橋南町
(現:新宿区若葉町ニ・三丁目、新宿区南元町、若葉一丁目、新宿区南元町)
(★)は道の両側が密集地帯だった箇所
戸数:1,325
人口:4,964
職業:日稼人足、人力車夫が多い
万年町
区域:万年町一・ニ丁目
(現:台東区東上野四・五丁目、北上野一丁目)
戸数:865
人口:3,849
職業:人足、日傭取り、人力車夫、屑拾いが多い
芝新網町
戸数:532
人口:3,221
職業:日稼人足、車夫、車力が多いが、かっぽれ・ちょごくれ・大道軽業・辻三味線等の芸人も多い
一日の稼ぎ
様々な物売りの稼ぎを知りたいところですが、下駄の歯入れ屋と羅宇屋しか分からなかったため、貧民窟に最も多かった屑拾い、日用生活費で例に挙げる人力車夫と芸人を追加しました。
下駄の歯入れ 2、30銭(約1,100〜1,650円)
羅宇屋 20銭(約1,100円)
屑拾い(紙屑) 15銭内外(約825円)
屑拾い(古縄古靴) 7銭(約385円)
屑拾い(硝子) 5、6銭(約330円)
人力車夫(おかかえ) 1ヵ月12〜15円(約66,528〜83,160円)
人力車夫(やど) 1ヵ月13、4円(約72,072〜77,616円)
人力車夫(ばん) 1日平均50銭(約2,750円)
人力車夫(もうろう) ばんと大差なし
芸人 15銭〜20銭内外(約825〜1,100円)
日用生活費
職業:人力車夫(4人世帯)
12月のある1日
※酒代、衣服、煙草代および子供の小遣いは加えられていない。
米代 28銭6厘(約1,570円)
石油代 8厘(約40円)
薪代 2銭5厘(約135円)
炭代 3銭(約165円)
朝の汁 2銭(約110円)
家賃(日払い) 4銭(約220円)
オカズ 5銭(約275円)
合計 45銭9厘(約2,520円)
職業:芸人(3人世帯)
住居:芝新網
米代(一升二合) 17銭(約935円)
酒代 3銭(約165円)
薪炭代 2銭(約110円)
煙草代 7厘(約35円)
肴代 4銭(約220円)
石油代 5厘(約25円)
子供の小遣 1銭(約55円)
布団損料 四幅布団二枚(レンタル) 2銭6厘(約140円)
家賃(日払い) 2銭5厘(約135円)
合計33銭3厘(約1,830円)
内訳を見る限り赤字です。しかし、この不足分は家内の内職仕事、質屋や日済し貸しで凌いでいたようです。それでも予期せぬ出費はつきもので、家計は常に火の車だったでしょう。
また、貧民にとって最も負担なのは家賃で、一つの借家に複数世帯が同居することも珍しくありませんでした。明治中期は日払いだった家賃が、明治末〜大正初頭にかけて月払いが増え始め、大正中期には月払いが一般化していきます。
住居
長屋
明治中期の貧民窟の住居は、共同長屋、棟割長屋、木賃宿が普通長屋と渾然一体な状態を呈していました。普通長屋に比べ、部屋や通路が狭いです。
『新撰東京名所図会』に、下谷万年町の棟割長屋の様子が克明に描写されています。
木賃宿
貧民窟といえば必ずそこにあったのが木賃宿です。明治20年の「宿屋営業取締規則」により、木賃宿の分布地区が制限され、明治末頃には更に分化されてゆきます。
主に木賃宿を利用していた者を挙げると、遍歴商人、旅芸人、千ヶ寺僧〔千箇寺参りの僧〕、回国巡礼などが多かったようで、他には男女の単身者、2人以上の世帯と様々な宿泊者が混在していました。
木賃宿の様子は、松原岩五郎の宿泊体験にてその実態が把握できるので、少し長くなりますが引用します。
宿泊者に飴屋が出てきました。入浴も満足にできず、着物も着たきり雀で、赤貧状態ということが伝わってきます。
かつ、雑多で不衛生な宿の様子に思わず眉を顰めてしまいます。衛生面においては長屋暮らしと大差無かったといえます。
食事
物売りの稼ぎから、日常的にどのようなものを食べていたか、推測できる食物を挙げてみます。
丸三蕎麦
値段 1銭5厘(約60円)
小麦の二番粉と蕎麦の三番粉を混ぜた粗製の蕎麦。擂鉢のような丼に山のように盛られた。
深川飯
値段 1銭5厘(約60円)
バカのむきみに刻み葱を加えて烹熟したもので、白飯の上にかけて出す即席料理。普通の人には磯臭くて耐え難いもの。
馬肉飯
値段 1銭(約55円)
下等食店の中で一番の人気を誇っていた。骨付きの馬肉をこそげ落とし烹熟したもので、これも白飯の上にかけて出す。
非常にあぶらの臭いが強く、鼻を撲つなりしないと食べられないほどである。
煮込
値段 一串2厘(約10円)
労働者の滋養食。屠牛場から臓腑、肝、膀胱、舌筋などを買い、これを細かくして串にさし、醤油と味噌を合わせて煮込んだもの。
臭すぎて普通の人は食べられたものではない。
現代のどて煮を粗悪にしたものでしょうか?
焼鳥
値段 一串3厘〜5厘(約15〜25円)
煮込と同じく滋養食。シャモ屋より買い入れ、鳥の臓物を蒲焼きにしたもの。
田舎団子
饂飩粉をこねて蒸し焼きにし、洋蜜またはきな粉をまぶしたもの。舌触りと喉越しが悪い。
以上は、「車夫の食物」として当時流行していたものが取り上げられています。これらは下層社会の飲食店で提供されており、様々な人が利用していたと考えられます。
ちなみに車夫は一日に5000kcalを必要としたらしく、一度の食事に数杯のおかわりをしていました。確かネアンデルタール人も一日に5000kcalが必要だったと何かで読んだ記憶が…。
屋台
人力車夫の夜の営業を目当てに、新橋から万世橋にかけて八十をこえる屋台が並んでいたそうです。屋台で売られていた食物は、おでん、煮込、大福餅、海苔巻、稲荷鮨、すいとん、蕎麦ガキ、雑煮、ウデアズキ、焼鳥、茶飯、餡カケ、饂飩、五目めし、燗酒、汁粉、甘酒など。
残飯
貧民窟の人々の食を支えていたのが残飯屋でした。
陸軍の兵営など各所から残飯を買い取り、貧民に売り捌く稼業です。
飯量およそ十五貫目(56.25kg)を五十銭(約2,750円)で仕入れ、一貫目(3.75kg)を5、6銭(約330円)位で売られていました。残飯屋が仕入れから戻ると、人々は食物を求めて店へ押しかけ「ニ銭下さい、三銭おくれ、これに一貫目、ここへも五百目」と我先に持参した器に差し出したそうです。
常食の蔬菜
切り干、豆腐殻、ぜんまい、蕨、にんじん、じゃがいも、諸種の莢豆など廉価に供給が可能なもの。
飲食店の環境は劣悪で、まともな食品保存もされていませんでした。そんな食材で食中毒を起こす客はいなかったのでしょうか。でも毎日のことですし、このような食事内容に身体が慣れていたのかもしれません。
所感
本題である物売りから都市下層へと逸れてしまった気もしますが、彼らも都市下層に属する人々であることは事実なので、貧民窟ルポタージュから考察するのは間違いではなかったと思います。
簡易的な内容とはいえ、数冊の本を読み直し、改めて日本の貧しさに悶々としてしまいました。
また、調べる対象を明治中期にしたのは、ただの個人的な好みです。