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碓氷峠を越える
万葉故地への憧れ
今年の春と秋に中山道碓氷峠を歩いてきました。
以前より、万葉集研究の第一人者でおられる犬養孝先生の『万葉の旅 』に憧れを抱いており、私も万葉の故地を歩いてみたかったのです。
最初は関東の見知った土地が良いと考え、もともと関心を持っている中山道碓氷峠から始めることにしました。
碓氷峠は東山道の要衝であり、自然環境の厳しい難所として広く知られていました。また、ここは防人たちには故郷との別離の場所でもありました。
万葉を好きになる
きっかけは旅行で明日香村を訪れた際、偶然立ち寄った犬養万葉記念館で流れていた「犬養節」に感動したことです。独特の節回しで朗唱される歌は大変心地よく、万葉は面白いのかもしれないと改めて感じる貴重な体験となりました。
万葉記念館のあと飛鳥宮と甘樫丘を訪れ、そこでは犬養先生が書かれた万葉の歌碑を見ました。
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采女の袖吹きかへす明日香風都を遠みいたづらに吹く
これは都が飛鳥浄御原宮から藤原宮に移って後、飛鳥浄御原宮の古都の所へやって来て、古都を偲んで作られた歌ですね。
「采女の 袖ふきかへす」と詠んでいるのは、志貴皇子には、飛鳥の風が吹いて、かつて女官の袖を吹きかえしていた姿、それが今のことのように懐かしいイメージとして思い出されているのだと思います。そうして、ほっと現実に戻ってみると、すでに都は遠く藤原宮に移ってしまった。だから今は颯々と飛鳥の草が風に揺れて、むなしく吹いているだけだ。こういう歌ですね。一見華やかにみえて、その実、何と寂しい感じでしょう。華やかさと、寂しさが一緒に歌の中に入っているみたい。そうすることによって懐かしい古都を偲んでいるのです。
ここを来訪以来、明日香村といえばこの歌の印象に染まってしまったほど強く心に残りました。
碓氷峠の歴史
碓氷峠とは
群馬県安中市と長野県北佐久郡軽井沢町との境にある峠。標高958m。峠の東麓の坂本(安中市)は標高約500mで,峠までの直線距離約6kmの間は450mを登る難所だが,峠の西側は平たんな高原となっている。
古く《日本書紀》に,日本武尊が東国から信濃に入る時〈碓日坂(うすひのさか)〉にいたり,〈碓日嶺〉に登って弟橘媛をしのび,〈吾嬬(あづま)はや〉といったという伝説が載る。《万葉集》巻十四に〈日の暮に碓氷の山を越ゆる日はせなのが袖もさやにふらしつ〉があり,巻二十にも坂を越える歌がある。この碓氷坂は畿内と東国を結ぶ古代東山道の要衝であったが,碓氷峠の南の入山峠をさすといわれる。なお峠の呼称は,碓氷峠にある熊野皇太神社の正応5年(1292)銘銅鐘に〈臼井到下(うすいとうげ)〉とあるのが早い。1602年(慶長7)に坂本から北側の尾根伝いに峠へ出,軽井沢に抜ける道が正式に中山道に制定され,峠をはさんで坂本宿,軽井沢宿が設置された。峠頂上には峠の茶屋ができ,熊野皇太神社の鳥居前町である峠町(現地籍は安中市と軽井沢町に分かれる)が形成されて,交通がしげくなるとともに〈間(あい)の宿〉としてにぎわった。碓氷関は899年(昌泰2)横川(同市)に置かれたのが古いが,中山道の関所としては1590年(天正18)碓氷峠に設けられ,1623年(元和9)横川に移された。
説明の通り古墳時代の碓氷峠は、現在の国道18号碓氷バイパスが通っている入山峠のことをさしています。私は何度か碓氷バイパスを通ったことがありますが、人が歩けるような整備はされていません。
万葉の頃になると東山道が整備され、近世の中山道碓氷峠に近い経路になったたようです。
碓氷峠の歌
万葉集で碓氷峠は、碓日山、宇須比坂と表記されています。
日の暮れに碓氷の山を越ゆる日は背なのが袖もさやに振らしつ
日暮れに碓氷峠を越えてゆく日、ちぎれんばかりに手を振って別れを惜しんでくれた夫の姿が目にちらついて離れない。
日な曇り碓氷の坂を越えしだに妹が恋しく忘らえぬかも
碓氷の坂を越える時に妻が恋しくて忘れられないよ。
歌人:他田部子磐前
他田部子磐前の役職は、防人部領使大目正六位下と記されています。防人部領使は、政府の命令により難波まで防人を連れて行き、そこで中央の役人に渡すという役目を担っていました。元来防人とは「み崎守」という意味で、白村江の戦い以後は東国出身者がその任に就いていました。
防人が奉った歌は巻20に84首残されており、稚拙と判断された82首は破棄されています。
都人による修正の跡があるかもしれないけれど、そのほとんどは当時の方言が残してあり東国農庶民特有の発想がいたるところに認められる、と犬養先生は書かれています。
他に子持山を歌っているものもありますが、後ほど触れることにします。
では防人たちが越えた難所を辿っていきましょう。
峠道
経路
徒歩経路の埋め込みがうまくいかないので全体図は画像で載せています。
群馬県側の碓氷小屋(峠入口)から熊野神社まで約8km、標高差685m。
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詳細はこちら↓リンクから確認できます。
ちなみに南側に位置する異常にくねくねした道は碓氷新道(旧国道18号 明治17年開通、コンクリート化は昭和11年)で、ここは鉄道が開通するまで碓氷馬車鉄道(明治21年-26)が横川軽井沢間の連結を担っていました。
明治17年から昭和の改修工事までの碓氷新道
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改修工事後の碓氷新道
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碓氷峠一の難所
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峠に入って割とすぐ刎石坂なる難所が待ち構えています。刎石坂は最も急勾配の難所で平均勾配が18.6%の急傾斜です。さらに坂道には数多くの石が転がっているので、注意しないと足を取られてしまいます。
この坂は刎石茶屋跡辺りまで続きます。
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尾根沿いの道
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碓氷坂の関所跡
昌泰二年(八九九)碓氷の坂に関所を設けたといわれる場所と思われる。
茶屋跡からは比較的緩やかな尾根沿いの道が続き、自然を楽しむ余裕がでてきます。都会では目にできない植物の美しい色合い、木々の良い香り、鳥の声だけが聞こえてくる贅沢な空間で、辛い急勾配を登りきって一時の心安らぐ時間と言えます。
堀り切り
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天正十八年(一五九〇)豊臣秀吉の小田原攻めで、北陸・信州軍を、松井田城主大導寺駿河守が防戦しようとした場所で、道は狭く両側が掘りきられている。
座頭ころがしの急傾斜に入る前、道の幅員が狭くなる堀り切りを通ります。
万葉の頃とは無関係ですが、歴史的に貴重な痕跡です。
碓氷峠は動物の生息地としても優れており、運が良いとカモシカに会えます。崖の向こう側から突然にょきっと顔を出したので、吃驚して一瞬固まりましたが、カモシカはそんなことはお構いなしとノソノソ歩いていってしまいました。後ろ姿もフワフワしていて可愛かったです。
ちょうどこの付近から山中茶屋跡まで広葉樹林が広がっています。
座頭ころがし(釜場)→栗が原→入道くぼ→山中茶屋跡→山中坂
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この先は座頭ころがし、山中坂が急傾斜の道となり体力的に辛くなります。
座頭ころがし
急な坂道となり、岩や小石がごろごろしている。それから赤土となり、湿っているのですべりやすい所である。
栗が原
明治天皇御巡幸道路と中山道の分かれる場所で明治八年群馬県最初の「見回り方屯所」があった。これが交番のはじまりである。
入道くぼ
山中茶屋の入り口に線刻の馬頭観音がある。これから、まごめ坂といって赤土のだらだら下りの道となる。鳥が鳴き、林の美しさが感じられる。
山中茶屋
山中茶屋は峠のまんなかにある茶屋で、慶安年中(一六四八〜)に峠町の人が川水をくみ上げるところに茶屋を開いた。
明治の頃小学校もできたが、現在は屋敷跡、墓の石塔、畑跡が残っている。
山中学校跡
明治十一年、明治天皇御巡幸の時、児童が二十五人いたので二十五円の奨学金の下附があった。供奉官から十円の寄付があった。
山中坂
山中茶屋から子持山の山麓を陣馬が原に向かって上がる急坂が山中坂で、この坂は「飯喰い坂」とも呼ばれ、坂本宿から登ってきた旅人は空腹ではとても駄目なので、手前の山中茶屋で飯を喰って登った。山中茶屋の繁盛はこの坂にあった。
山中坂は説明の通り、何か食べないと行倒れる恐れがある坂だったので私はスニッカーズを食べながら登りました。
防人たちも必死に歩いたと思います。九州までの旅費諸々は全て自己負担だったそうなので、携帯食などが足らず途中で行倒れてしまう人も少なくなかったようです。防人の歌は家族との今生の別れであるかもしれませんね。
陣馬が原
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子持山の歌
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子持山 若かへるでの もみつまで 寝もと我は思ふ 汝はあどか思ふ
「かへるで」はカエデ・モミジのこと、「もみつ」はもみじする意で、
"子持山の春の若いカエデの葉が秋にまっ赤に色づくまでいつまでも、いっしょに寝ようとわたしは思うが、お前さんはどうかね”という趣の歌だ。
このあたりの晩秋は顔も映えるほどのもみじの壮観だ。上三句は誇張のようだが、かえって燃えるような情をも思わせ郷土色に深くしみついた民謡らしいひびきがある。それに下二句は、大和の都人の感覚からすればあまりに露骨に思われようが、土にまみれた生活の中からはかえってかざらない真情があふれていて卑俗なものを感じさせない。素朴な問答式のくりかえしも諧調がよい。朝夕山とともに生きる農民たちの山麓生活のあいだにうたわれた歌であろう。
子持山の場所は諸説あります。広く知られているのは渋川市と沼田市にまたがる山の方で、『万葉の旅 中』ではそちらが紹介されています。
子持山の中腹には子持神社があり、古くから性の民間信仰があったそうです。子孫繁栄の信仰でしょうか。
歌の舞台は碓氷峠ではないかもしれません。しかし犬養先生が仰られているように、歌は人々の共有財産であり伝播していった可能性を考えると、碓氷峠付近でも歌われていたかもしれません。そう思えるほど峠の紅葉は実に見事です。
中尾という谷合の紅葉は近国無双の景観、紅葉はよく歌に詠まれている。
熊野神社から熊ノ平に至る道は紅葉道と呼ばれ、約一里半ほどは左右見渡す山は紅葉で壮観。名物は力餅。
熊野神社の頂上にある熊野神社から熊ノ平に至る道は紅葉道と呼ばれ、約一里半ほどは左右見渡す山は紅葉で壮観。
明治44年に発表された童謡「もみじ」は、作詞者の高野辰之が熊ノ平駅で眺めた紅葉に感動したことをきっかけに誕生しました。
再び難所
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子持山あたりで道は二股に分かれます。群馬県側から右は和宮道のなだらかな坂、左は長坂の険しい道です。
ありがたいことにストリートビューに投稿してくだすっている方がいるので、道が分かりやすく表示されました。ちなみに国土地理院の地図でも確認できます。
二股に分かれるのは、ちょうどここで、陣馬が原と万葉集の子持山の観光看板が立っている場所です。
子持山から西へいく道筋は、谷沿いの道となる。人馬施行所までは高低差もさほどないが、人馬施行所から熊野神社までは、高低差 130mの急斜面で、上州側最後の難所である。
やはり古道を歩きたいので左の長坂へ進みましたが、なかなか頂上が見えず延々と続く急勾配の坂道にうんざりしました。ここは最後にとどめを刺される地獄坂です。徐々に無気力となり写真撮影をする余裕も尽きました。
あづまはや
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やっとのことで峠を登りきり、少し先へ行くと旧碓氷峠見晴台へ出ます。
周辺の山を一望でき、条件が整えば雲海も見えます。
諸説ありますが、ここは日本武尊が妻を想い「あづまはや」と嘆いた地とされています。
日本書紀によると、日本武尊は東国を平定し、武蔵、上野を経て、この碓氷坂に差し掛かったが、濃霧にて道を迷われた。その時、一羽の大きな烏(=八咫烏:ヤタガラス)が紀州熊野山の梛木(なぎ)の葉をくわえ来て、御前に落としながら道案内をし、尊は無事頂上に達することが出来た。碓氷峠の頂上に立った尊は棚引く雲海より海を連想され、旅の途中で相模灘(=東京湾走水)で入水された「弟橘媛(おとたちばなひめ)」を偲び、「吾嬬者耶あづまはや」と三度嘆かれたという。
以後ここより東の国を、吾妻(あづま)と呼ぶこととなった。
険しくも美しい自然
碓氷峠の山中には鹿が多い。寒さが厳しく、五穀は熟せず野菜もない。
峠の中には万葉の頃を偲ぶ跡は見当たりません。
「碓氷峠道路の今昔」に掲載された写真では、要路として役割を終えた約半世紀後(昭和8年)の様子を知れます。かろうじて道は確認できますが、草ぼうぼうで荒れてしまっています。
現在は整備されている部分もありますが、道の侵食が進んでいるところも少なくありません。
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2024年の碓氷峠
厳しい環境でも自然の色彩は美しく、陽の光に照らされた木々は何ともふっくらとした温かみを感じさせてくれます。
ほんの少しですけど碓氷峠の春秋の写真を御覧ください。
春
群馬県側から峠を登る。
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秋
軽井沢側から峠を下る。
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春は鳥の声に小さな生き物が動く葉音、秋は静けさの中に時おり鳥の声が聞こえてくるだけです。
碓氷峠は歩くだけで心の英気を養える場所でもあります。
あたう限り時代を昔に引き戻す
できるだけ時代をもとに戻し、歌の生まれた風土のなかにとき放った時、歌はもとの生態をいきいきととり戻し、歌のこころはわたくしたちの胸に響きかえってきてもっとも古くて、もっとも新しい生のいぶきに触れることができます。日々の心の糧としてよみがえる、不思議な力をもっているのが『万葉集』の歌です。
万葉に限らずですが、目に見えている形だけを追求しようとしても本質は見えてこない、常日頃そう思い知らされています。
短絡的な判断に陥ると視野が狭くなり、様々な思考の妨げになってしまうため、犬養先生の仰っていることは教訓とさせてもらっています。それは私が好きな戦前の文化についても考える時も変わりません。
碓氷峠を越えてみて
事前に峠越えの下調べはしていましたが、いざ峠へ踏み入ると無事頂上まで辿り着けるか不安と緊張が入り混じりました。山は日が陰るのが早く、お昼過ぎでも夕方かと錯覚してしまう暗さがありますし、整備されていない道は常に注意して進まなければ生死に関わります。そのせいか一人で歩いていると警戒心も高まり野生の本能が戻るかのような感覚がありました。
びくびく歩いていたわけですが、それでも峠の自然は素晴らしかったです。
しかし防人たちからすると、自然環境の厳しい峠でしかなかったかもしれません。険しい難所を越える心身の不安と家族への思慕。他田部子磐前の歌は張り裂けそうな胸の内が伝わってきます。
『万葉の人びと』で取り上げられている防人の歌には、他田部子磐前の率直さと異なる愛情表現のものがあります。
葦垣の隅処に立ちて吾妹子が袖もしほほに泣きしそ思はゆ
これは、今で言えば東京湾に面した千葉県、当時の上総国市原郡の防人の歌なのです。東京湾岸ですから、葦の垣根があったのでしょう。「隅処」は隅っこという意味。"葦の垣根の隅っこに立って、妻が私の出かけようとする時、袖もぐっしょりになるくらい泣いていたっけ。今もあの姿は忘れられない"と言うのです。「泣きしそ思はゆ」というのは「思われて来る」というんです。これをみますと、「垣根の 隅処に立ちて 吾妹子 が 袖もしほほに 泣きしそ」というところまでは、この防人が出発の時の妻の状況を思い浮かべてなつかしく描いているのです。これが愛情ですね。私は妻が恋しくてたまらないなんて一言も言わないで、出発の時の妻の姿を思い描いて、葦の垣根があったっけなあ、その隅っこに立ってわが妻が袖もぐっしょりになるほど泣いていたっけなあと、その描いていく姿の中にこの作者の愛情が実に豊かに出ていると思います。最後に「思はゆ」と主観だけが入っている。これをみたら、何と「私」に徹していることでしょうか。(…)ぼくは、万葉のすばらしいところは、人間の素直な心をそのまま訴えている点にあると思います。この歌を読むと、何と妻への愛情に徹しているかがわかります。
防人の歌は別離が前提にあるせいか、家族への豊かな愛情表現には胸を打つものがあり、どうしても切ない気持ちになります。
それは東歌や防人の歌には、質朴な庶民の清朗さが率直に伝わってくるから好きなのだと思います。
終わり
私は万葉は好きですけど決して詳しくはありません。
犬養先生の本から、万葉は心の音楽であることを初めて知り、そこには目に見えない心と言葉が宿っていること、人の心の頼もしさを教えていただきました。
それに「犬養節」は陽の力を持つ言霊で、聴いているだけで心地が良くなり、気がつくと前向きな気持ちになっています。
残されたものでしか分かりませんが、犬養先生の豊かな感受性こそが万葉を生き生きと人に伝え続けているのだと思います。
次の機会も東歌の故地へ行ってみたいです。