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きもの 花柳章太郎

長らく積読状態にしていた花柳章太郎さんの『きもの』(昭和16年)。やっと手に取り、一気呵成に読み終えました。花柳章太郎さんのことは『残菊物語』で知っていたのですが、新生新派の女形役者であったことは知りませんでした。本でも、舞台衣装の誂え話や、衣裳寫眞が多数紹介されています。また、着物について造詣や探究心が深く、その感性にすっかり魅了されてしまいました。ここでは、書評というより気になった箇所をメモとして抜粋し、今後の考察の参考にするつもりです。そのため、記事のほとんどが引用ではありますが、『きもの』をまだご存じない方にその魅力を伝えたく意図的にそうしています。私のような者が大それたことを言っているのは百も承知ですよ…。


『きもの』という本

花柳章太郎さんが、演劇新派や雑誌に掲載してきた、きものに関する記事を一冊にまとめたのが『きもの』です。ご自身が役に付くようになった当時より、舞台衣装に関心を持ち、その工夫における愛惜心や苦労の数々を綴っています。例えば、劇場組織の発達によって、劇全体と舞台衣裳の調和が重要となり、その難しさから衣装デザインを日本画の大家に依頼した話を取り上げられています。また、きものの歴史や変遷を丁寧に解説され、各項目ごとに、ご自身の舞台衣装姿の寫眞を参考に載せています。


装幀

名だたる日本画家達による美しい装幀です。

箱張 鏑木清方筆「瀧の白糸」衣裳デザイン

花柳章太郎『きもの』より

表紙、扉 苅谷鷺行筆「白鷺」衣裳デザイン、小村雪岱筆「稽古扇」長襦袢デザイン

花柳章太郎『きもの』より

見返し 鏑木清方筆「瀧の白糸」衣裳デザイン

花柳章太郎『きもの』より
花柳章太郎『きもの』より

瀧の白糸の首ぬきデザインは、明治中期の流行をそのまゝ時代色(今の時代に合う色)にしています。肩一ぱいに胸へかけてすなわち首だけ、その模様から拔き出て居るところから首拔と云ふ名稱が出たものであります。三つ扇を一ぱいに出して前褄に一本の半開きの扇を置き、そして下褄に線図を開かずに置いて下さった、清方先生の御苦心にはまったく恐れ入ってしまったのでした。

花柳章太郎『きもの』より

三色版 伊東深水筆「日本橋」衣装デザイン

花柳章太郎『きもの』より


目次

花柳章太郎『きもの』より
花柳章太郎『きもの』より
花柳章太郎『きもの』より
花柳章太郎『きもの』より


序 鏑木清方

鏑木清方氏と木村荘八氏のお二人が序を書かれています。鏑木清方氏の序を抜粋し紹介します。

いゝきものがふんだんに着られるからと云って、それだけで藝妓になった娘が以前にはさう珍しいことではなかった。褒めた沙汰でもあるまいが、女にとって美しきものや帯のもつ魅力は、あらくれた男の考へ及ばないものがある。元禄の昔、中村内藏之助の妻は、東山の衣裳競に參會の女房達の綺羅を飾ったなかへ、黒羽二重に白を重ねて出てアッと云はせた。それは尾形光琳の意匠に依るものだと云はれる。同じ時代、石川六兵衛の女房は、珊瑚珠で南天の實を縫った襠(うちかけ)を纏ったといふ。なんぼ天和、元禄、華奢の御時世でも遂に官の外に女を受けた。その時々の政治の力で、あまり美に耽り、美に溺れるとその匡される時が来る。花爛漫と咲き亂れた春のあとには、落葉淋しい秋がめぐって来るやうにきものの移りかはりにも、また四季の序あるが如くである。たゞ後の世になって見ると、平野の涯なくつゞやうな歴史のなかに、服飾の美しかった時代のあるといふことが、峯の紅葉を仰ぐにも似て、そこにも日本の美しさの盡きぬあこがれの源がある。一代の名女形花柳章太郎君、きものを愛すること世の常の女の比ではなく、意匠は工人のよく及ぶところでない。つまりは藝道の執心がさうした知識に長ぜしめたのである。その薀蓄を傾けたこの書は、當代に於て迎へられるばかりでなく、後の世になると、ちやうど我々が寛文だの元禄だのと時世粧に寄せるやうななつかしみを、好みを同じうする人の間に長く傳へることであらう。

花柳章太郎『きもの』より


『きもの』で気になった項目

序章

美しいものと贅澤との相違
美に対する本能的な欲求から、女性が着飾る事は(孔雀の場合と反對ではありますが)自然だと思ひます。然し、こゝで氣をつけなくてはならないのは、美しさと贅澤とは全然別なものであるべきだといふ事であります。美しさには、年齢により、又人柄に釣合のとれたものを要求されるべきでせう。先日、有楽座に出勤してをりました時、丁度その日が日曜でした。午後の四時ころ、東寶、有楽二座の前は、時ならぬ花壇のやうに若い女性で埋りました。娘さん奥さんの召して被在るものゝ、靑、白、黄と云ふやうな原色、又その他の流行色の氾濫した中へ、大島のアンコ二人が絣のキモノに巻帯で前垂をかけ、手拭で髪を巻いた淸楚な姿で現れたのです。勿論着るものゝ異って居た點はあるとしても周圍の女性の白粉をつけ、ルージュを塗りたくった技巧の美しさの中へ、二人のアンコの出現が、その自然美で令嬢達を壓してしまったことは當然と云へませう…。娘さん達の人工美より、アンコ達の自然な美しさが數等上である事は亊實でした。

花柳章太郎『きもの』より

流行に就いて
流行は世間の傾向を見て企業者が創案するもので、新しい商品を賣るための商買人の企畫であります。すべての人が毎年同じ物を着て居られたらたまりません。流行は循環して居ます。拾年も以前に買ったきものが着るときがなくて藏ひ込んで置いてあって、何年か振りに出して見たら丁度その時の流行柄や色であった、なんてことはよく聞く話です。流行柄や色で自分にピッタリとしたものを求めるのもいゝでせうが、自分に消化出來ない柄や色を流行だからと云って買ふ愚さはつまりません。無いお金を算段して流行を追ふ人があるやうです。自分に似合はなくとも流行に遅れてはならないと思って買ふ、それは病的にゆがんだ美を追ふ嗤ふべき心理と云はなければなりません。

花柳章太郎『きもの』より

若い婦人の美
日本の室内の近い目で見るやうに作られ續いて來た昔の柄は、いゝには違ひないのですが、建築、照明の近代化された今日にそぐはない點があります。しかし又若い婦人方には見馴れたさうした昔のものより只見た眼本位の反物柄に氣を奪はれ、只色彩のゴタゴタした中に自分の若さを、潑剌たる若さを消されて居る人を多く見かけますのを氣の毒な氣がしてなりません。

花柳章太郎『きもの』より

きもの

日本古來の美しさ
近頃又きものの上で明治時代の好みー即ち明治調が復活して來たやうに見受けられます。明治時代の特長は、きものは勿論凡ての風俗の上に、固苦しい封建時代から開放された文明開化の自由さがあり、批判もなくとり入れた西歐文化の影響といふよりも、羽織袴に深ゴムといった様に雑然とした、不調和な和洋混合のところにあります。一面それは吹き出すやうな風俗にみられますが、然しその洗練されたものゝ中には、古い昔からの練りに練られた地味な、澁い、純日本趣味を失はずしかも新時代のきざしを見せた、明治時代に限られた面白味と良さが見られるのであります。〔中略〕明治末から、大正の世界大戦の好景氣時代になりますと、世も人も浮き浮きと、好みも俄然派手一方になってしまひました。〔中略〕景氣が下を向きかけたところへ関東大震災がありました。あの震災は確かに東京それに支配される各地の風俗流行を、震災前と震災後の判然とした二つのものに分けてしまひました。震災後の特長としてましては、その西洋風にあります。明治時代の和洋混合なしに、勇敢に日本風をかなぐり捨てた完全な西洋風になります。

花柳章太郎『きもの』より

ここで男性の着物について以下のような言及をされています。

日本趣味江戸趣味で、澁い着物を好んで着て、きもの以外洋服などには袖も通さなかった人が、勿論男の方ですが、震災で全部消失してしまって、扨て新しく拵へ出さうとした時二重生活の繁雜と不經濟さから、一變して洋服一點張りに轉向した方があります。

花柳章太郎『きもの』より

着物の好み
昔風な濃いめの色は近代化した周圍に調和しなくなって自然薄色萬能の時代となりました。又東京、大阪、京都、名古屋、神戶等その他の各都市にはデパートがあって専門的に深い考慮を拂はれること、比較的に尠い品が大量生産的に安く賣出され世の婦人方は又これを、流行を追ひ個性を忘れ、審美眼を失ひ、調和も考へずに買求めて着る爲に、時代の本當の好みも方面も失ひ、統一を缺き、全く廢れてしまひました。

花柳章太郎『きもの』より

羽織

羽織の變遷
羽織の寸法はむづかしく、私共自分でもまだハッキリと自分の寸法を知りません。書生羽織は長めに、ふだん羽織はみじかめに、又黑の羽織紋付はあまり短いと芝居の庄屋様のようになりますので注意していたゞきたいものです。女の羽織は髪によって差別されます。洋髪の場合はあまり衣紋をぬきませんから、襟かたをくり越しをすくなく、又和髪の時はくり越を多くして仕立てていたゞく事は勿論で御座います。

花柳章太郎『きもの』より

帯の地質
男帯の地質は繩絲打もあったが、繻子、畝織、小倉、奥縞、龍文などで、色は紫、茶、唐茶、薄鼠、靑茶、黑などがあり、染分もあった。文様には、縞、小紋、小紋に中形を用ゐた。

花柳章太郎『きもの』より

モスリン帯の失敗
長田幹彦先生作「戀ごろも」を瀨戶氏が脚色して好評を受けました。その序幕母娘が暮らす侘住居の場。九月狂言のことゝて單重の浴衣にその頃、千里と云ふ女給が居りまして、美しい人でした。この千里さんの帯がモスリンの洋花の模様で、氣にいりましたのでその役に丁度いゝし、序幕の浴衣一つで出る幕開きに舞臺でしめたら朝の氣分も出ようと云ふので借りることにしました。家で妹の羽二重の帯を出させまして懸命に稽古をして、どうやら自分で結べるやうに迄なり、これならば舞臺で一人でも大丈夫と云ふ處迄勉强したんです。初日の朝その帯を千里さんが芝居へ届けておいて呉れましたので、一度その帯でテストしておけばよかったのですが、高をくゝって序幕があいてブッツケにその帯を舞臺でしめやうとしますと、相手は絹物と違ってメリンスです。どうにも浴衣にからまって家でやって見たやうに行きません。これはいけないと思ってやって居りますうち、残暑のきびしい上初日のことゝて臺詩に追はれがちどうにも「きっかけ」迄にその帯が結べないので、思はずジレた気持ちで裾に長く敷かれた花模様の帯のはしを、娘を忘れて足で蹴ったのでした。十七八の娘の仕草でないんで見物は一齋にワッと湧く始末です。すっかりあがってしまって舞臺裏へ飛び込み衣裳屋に結ばせました。相手のお母さんは村田のおじさん(故人正雄)です故、どうにかその場はつないで下さいましたが、帯が結ばってから舞臺へ出ていきますと見物が又ワッと云ふんです。飛んだ恥をかきまして、それ依頼舞臺での仕事は殊に氣をつけることに致して居ります。随分その幕が閉まってから先輩に叱られました。

花柳章太郎『きもの』より

帯止のついでに指環にも触れています。私はアンティークの指環が好きで蒐集していますが、必ず自分に似合う指環を選ぶよう気をつけています。指環はあくまで手を美しく引き立てる為の脇役です。指環に限らず何においてもですが。以前、いつもお世話になっている西洋アンティーク店の店主さんから、自分に似合う指輪の見分け方をご教授いただいたことがあります。その方法は、まず指環を嵌めて、もう片方の手で指環を覆うように隠します。少し経ってから、覆っている方の手を除け、指環を嵌めている手全體を見ます。指環を嵌めたことで、手が美しく見えたら似合っているとのことです。しかし、指環だけが目立っていたら残念ながら似合っていません。花柳章太郎さんが下記のように仰るのは、似合う指環をしている御婦人が少なかったせいかもしれませんね。

帯止の話
櫛や簪が髪を粧ふ大切な役目がありますやうに指環、帯止は衣裳をつけた女性全體を總合的にまとめる畫で云へば落款のやうなものと存じます。私はどうも指環と云ふものが嫌ひで鯛の目玉のやうなギラギラしたのを指先に光らして居る御婦人を見るとブルジョアの化物のやうな氣がしてかえってその方の性格までうたがふやうになるんです。「このダイヤよりこの方が色は悪いんですが大きいからこの方にするわ」ダイヤ自身の性の良いものより、大きいからこの方がいゝと云ふので大きい方をとる。さうした婦人が多いと云ふことをある寶石商からきゝました。〔中略〕全體着物はやはらかいもの故、帯止に金属性のものゝかたいものでしめるのが合理的でせう。紐の帯締めも平常や一寸の外出には好いのですがまとまった服装の時は何んと云っても金具が此上ないものと思はれます。〔中略〕大正以後は大流行でしたが近頃あまり帯止の流行を見ないやうですがこうした物は昔の物が好いやうで御座ゐます。もっとも昔のものは型が小さいので近頃流行の派手好みに調和しないので型を大きくすれば好いだろうと存じ、私など舞臺人はなるべく大きくして使用して居るんです。

花柳章太郎『きもの』より

諸大家による帯のデザイン

伊東深水氏筆

花柳章太郎『きもの』より

木村荘八氏筆 山川秀峰氏筆

花柳章太郎『きもの』より

小村雪岱氏筆

花柳章太郎『きもの』より

長襦袢

男物長襦袢
これは女物よりずっとおくれての使用らしく、江戸時代でも餘程の通人でないと使用しなかったらしいです。私共子供の頃早く長襦袢を着られるやうな人間になりたいとさへ思って居たものでした。これはほとんど明治中期以後から一般的になったものぢやアないかと存じます。忠兵衛でも權八でも芝居では半襦袢であります。羽二重の長襦袢を着て居ると云って驚いたことがありますし紬や八橋、ほうしょうのやうなものを着て居た人が多くて縮緬の長襦袢を着て居る人は餘程の贅澤な人でした。私など名題になった年(廿四歳)ようやうとその昇進を祝して母親がこしらへて呉れましたので、嬉しかったことが忘れられません。

花柳章太郎『きもの』より

舞台衣装

明治調の復活を試みた事例。

明治一代女の實例
友人川口松太郎君の「明治一代女」は、明治座においてはじめて上演されました。桂子は現代の藝妓であり、お梅は明治時代の藝妓であります。年來その復活と願ってゐた明治調を、そのまゝ、ふんだんに着せて差支のないのがお梅の役でした。私は時こそ御座んなれと思ひました。私はお梅の衣裳をきるに當って、わざとデパートを避け、東京の代表的な呉服屋さん五人をえらんでこの人達に相談しました。六通りのきものを染めなければならない。私はその六通りのきもので舞臺効果も充分擧げたいし、又一面、明治調の見本ともなり、それによって明治調復活の機運をも捲起したい。〔中略〕新橋の「知多和」柳橋の「久我屋」芳町の「石島」✗✗✗の「しま富」銀座の「ゑり円」でありました。〔中略〕序幕のきものを「知多和」に頼みました。この私の詿文は着物は鼠地に鮫小紋、櫻の花びらと葉の吹きよせ、枝垂れ柳をこれに一本、竪にあしらひました。帯は薄白茶の柿茶の横縞、これは「ころ」の縞織地。長襦袢は洗ひ朱に白拔きの紀の國格子。返しは「石島」に頼みました。龜甲の友禪は大阪の小大丸で見つけて書ひましたが、その下の平常着を、黑に細い麻の葉の黄縞を染め出した縮緬の浴衣とし、しごきを櫻と柳の模様を錆朱と鳶黄色で出すように頼みました。二幕目芝居茶屋の二階、これは柳橋「久我屋」が擔當。着物は浅黄鼠地光琳の白梅、下着も共(伊藤熹朔案)帯は紺地緞子に靑金のハル藤を織出したもの。長襦袢は地に白の梅の模様。しごきは紅。三幕目、梅川の二階。着物は薄茶色地に古代紫のむきみ絞り、裾は波に千鳥の小紋、帯は納戸地に水金の柳の獨古、長襦袢は紅地に竹の友禪の小模様。四幕目、お梅の家と問題の河岸の殺し場。此處ではこの時代最も流行し、又お梅が特に好んで着たといふ事實から、赤大名をえらびました。帯は茶獻上。長襦袢は朱の無地。合羽は紬のお納戸無地に黑天鵞絨の襟。赤大名のすぐれた良さは凡ての人に同感を得ました。多くの方は今更の如く赤大名が持つ明治調の良さに驚いた様でした。その後東京の各所に赤大名が現れました。私の努力むなしからず、其處に明治調は復活し、實に酬いられた喜びを感じました。以上は芳町の「石島」。扨て大詰仙之助の楽屋。黑地に青磁菊の葉小紋。下着は荒い格子の八丈。帯は博多の矢鱈獻上。羽織ー小豆地に暴れ駒の白拔小紋。長襦袢ー古朱色の無地綸子縮緬。これは銀座の「ゑり円」で製作。以上私が見立てたお梅のきものでございます。大阪上演の折は、序幕梅川のきものを白地に薄ねずみの辨慶、帯を江戸紫に白拔きの廓つなぎの鹽瀬にしてみました。どれがどうお氣に召したかは皆さんの心ごころとしましても、私としましては考へぬいた揚句の好み、五人の呉服屋さんも腕に縒をかけてくれたので、満足した出來でありました。

花柳章太郎『きもの』より

この本で、花柳章太郎さんは「調和」を考慮した床しい美しさについて、繰り返し述べていらっしゃいます。この調和、簡単なようで難しい感覚、技術ではないでしょうか。花柳章太郎さん自身、過去二十何年の間に、きもの三千枚分の経験と苦労をしてきたと書かれています。第三者からすると、なんて経験豊富なのだろう…と印象を受けますが、ご本人は「多少は自信もあります」とおっしゃる程度なので、常に「美は調和から」という追求と向上心をお持ちの方なのだと伺えます。その中でも「きもののえらび方」については、ずっと心に留めておきたい内容です。

きもののえらび方は一槪に金をかけたゞけでも駄目、要は個性を活かした調和にあります。己れの好みがはっきりして來て、その時その場合に着るきものと自分の氣持とがピッタリ來れば、つまりはそのきものはその人の體と心についてきものと人とが一つものになります。借りたものでなくなる譯です。さうなれば金目のかゝたものでなくともそのきものは一番その人を引き立せることになるのです。引立たせるといっても、人の目を奪ふといふケバケバしさでなく、目立たぬやうでゐて、見れば見る程スキがない心にくい好み、つまり其處に澁さが出て來る譯であります。心にくい好みを見せた御婦人には、頭が下がります。その人が聰明に見えます。床しく見えます。床しさを感じさせる域に達すれば、その人の着物のえらび方は卒業したと云へます。どんなにきらびやかな着物を着てゐても、これがその値段だけしか考へられない様な場合は、唯々氣の毒で、哀れさのみが感じられます。

花柳章太郎『きもの』より

花柳章太郎さんの『きもの』は、これから着物について考察を進めていく上で、とても大切な一冊となりました。また、近頃は明治期の着物にも関心があり、この本を読んでから更に関心が高くなりました。追々調べていきたいです。


残菊物語

読了後、すぐに残菊物語をAmazonプライムでレンタルしました。溝口健二監督は、完璧主義者で時代考証もしっかりされています。衣裳のみならず、町並みや小道具などもよく注視すると発見があって面白いです。映画の物語はさておき、花柳章太郎さんの着物や所作を注意深く観察してみました。時代背景は、人物や鉄道のことを考慮すると明治中頃でしょうか。デジタル復元版とはいえ、着物の模様がよく見えず残念です。

溝口健二『残菊物語』より

『きもの』に残菊物語のことも触れています。

先年「残菊物語」を撮影いたしました折、菊之助の斧、琴、菊のゆかたを使用いたしました。その當時、菊之助の着て居りましたものをそのまゝに使ってみたかったのですが、溝口君が白地の浴衣はライトが強いため色が飛ぶから同じ物を作って、それを柿色のうすいもので白地を染めつぶして呉れと云ふのです。これには驚きました。柿色のゆかたを着て居るとなんとなく囚人をおもはせますので、どうにも實感が出なくて困り、一日お徳とラブシーンを撮りましたがなんとなくその濡場と氣分がマッチしなかったので撮りなほしてもらったことが御座ゐます。柿色の生地を染めても映畫の方では、このカットに使用したものを御覧いたゞけばわかると存じますが、こんなに白い生地となって現れます故、映畫の方の衣裳の選びかたは又舞台臺と逆の効果となります。

花柳章太郎『きもの』より

女性のお化粧でも、白黒映画では黄色味の白粉を使用していたといった記事を読んだことがあります。衣裳でもこういった問題があったとは。ちなみに、柿色(赭色)の獄衣は明治5年の監獄則で定められ、明治14年の改正では赭色、刑事被告人や18歳以下の受刑者は浅葱色と定められていたようです。

舞台

溝口健二『残菊物語』より
溝口健二『残菊物語』より
溝口健二『残菊物語』より
溝口健二『残菊物語』より

不断着

溝口健二『残菊物語』より

財布を腰に戻す仕草。履物は、男堂島でしょうか。明治の普通履きの下駄は、たいてい表つきで、差歯は少なかったそうです。どうでも良い事ではありますが、この場面は花柳さんが仰る「ラブシーン…」。どうも初々しくて顔がニヤけてしまいます。

溝口健二『残菊物語』より
溝口健二『残菊物語』より

不断着の着方 長着→帯→足袋→羽織→襟巻

舞台後の着替え場面。着方に関心があったので繰り返し再生して観ました。腰紐がとても細く、端が房になっています。戦前は、腰で締めるのが一般的だったようなので、締めやすい細紐が使われていたのでしょうか。長襦袢の項では、長襦袢には細紐を使用した方が良いと書かれています。

溝口健二『残菊物語』より

腰に巻き付け、中央で結んで処理していました。

溝口健二『残菊物語』より

帯は貝の口でしょうか。

溝口健二『残菊物語』より

着終わった後に座って足袋を履く。長着がはだけて襦袢が見えています。

溝口健二『残菊物語』より

羽裏。どんな模様なのか検討が付きませんが、小槌のようなものが見えます。ぱっと羽織って紐を結んでいました。

溝口健二『残菊物語』より
溝口健二『残菊物語』より

外に出てから襟巻きを巻く。物にもよるでしょうが、前から後ろに回し、前で結んでいます。ちなみに右側に見える女性はお徳さん。

浴衣

この浴衣をどこで着ていたのか分かりませんでした…。それにしても洒落た浴衣です。

花柳章太郎『きもの』より

ドサ回りで着ていた、紅葉に蝙蝠?雁?模様の浴衣。紅葉が絞りのようなのですが、染めなのかどうか映像では分かりませんでした。

溝口健二『残菊物語』より


外套

インバネス、二重廻し、トンビと様々な名称で呼ばれていますが、正しい名称や定義などは曖昧なようです。二重廻しは和服用、インバネスは洋装用で丈の短いものをさすといった説もありますが、これも定かではありません。ただ、関東では、和服用の二重外套を二重廻しと呼ぶのが一般的です。明治初期頃は、釣鐘、蝙蝠と呼ばれたマントのような外套が広く用いられていました。明治中期の『衣服と流行』には、日本の外套として、鳶型外套、角袖外套が紹介されています。まだこの頃は洋装でも二重廻しが着用されていた為、日本の外套として紹介されていたのでしょう。1920年代になると、襟に毛皮が付いた二重廻しが登場します。菊之助が被っている耳覆いつきの帽子は、鹿打ち帽というそうです。

溝口健二『残菊物語』より

菊之助が着ている二重廻しの襟に、毛皮がついていることが気になります。

溝口健二『残菊物語』より

ちなみに、右側にいる女性は髪に花飾りを付けています。当時、髪に花飾りをつける事はハイカラなことでした。ただ、20歳くらいまでの若い娘に限ります。

久々に溝口作品を観ましたが、鑑賞後の満足感は相変わらず高いです。それにしても花柳章太郎さん、本当に素敵でした。着物の男性をみて、洒落ているというのは、こういう方のことを言うものだな〜と感じ入りました。着姿も自然で、一つもいやらしさがない。戦前でも洋装の男性が増えてから、着物を上手に着こなせる方は少なくなっていたようです。現代では、ここまで装える方なんて本当にいらっしゃらないのではないかと思えてなりません。

これだけでは物足りず、歌行燈を続けて観ました。この映画でも、花柳章太郎さんの観察をやめられません。それに、私は能楽が好きなので、山田五十鈴さんが海士の仕舞を披露する場面は印象的でした。ちなみに時代考証は木村荘八氏が担当されています。



花柳章太郎『きもの』二見書房、1941