『残穢』を観たことと、最近眠れないこと。
穢れは溜まっていく。
人間の想いも同じで、それは空中に漂う。ほとんどは霧散するが、あまりに強いものは、重く下へ下へ溜まっていく。そしてそこにある石や木や土に染み込んでいく。
神社に行けば感覚としてわかると思う。目に見えはしないが、様々な人の想いが集まり染み込んだ場所だ。信仰とも言って良い。偶像が偶像たりえているのは、想いがそれに染み込んでいるからだ。
別に特別な場所のことだけではない。例えば、人が誰かを好きになること。憧れるともいうが、憧れるの語源は「あくがる」である。心が体から離れてさまようという意味だ。そのくらいに、この世界はさまよい動きまわる意識であふれている。
何故そんなことを語るかというと、最近眠れないからだ。寝ていても夜中に目を覚ますことが多いし、或いは全く眠れない。そしてそんな時は決まって物音がする。いわゆる家鳴りだ。金縛りに遭うことも増えた。決まって何かの気配に目を覚まし、床を摺る音がする。
私は幼いときから小泉八雲作品を好んでいたこともあり、怖い話が好きだ。いろんな話を集めてもいる。
最近読んだ中で一番怖かったのは、『残穢』だ。『残穢』は2012年7月20日に新潮社より書き下ろしで刊行されたホラー作品で、2016年1月より実写化映画として『残穢 -住んではいけない部屋-』が公開された。文庫本が刊行された2015年に小説を読み、しばらく経って映画も観た。それを今になって思い出した。
ところで、怪談というのは、そもそもフィクションであるがゆえにそのほとんどが人によって作られる。しかし、『残穢』の中で描かれる〈穢れ〉というものは怪奇現象とは違い、フィクションではない。『残穢』の怖さと小説としての巧みさは、ここにある。物語としては虚構だが、穢れは現実としてあり得るのだ。現実にない虚構としての怪談が、現実にある〈穢れ〉の形をとって日常を侵食していく。次第に現実は虚構になり、虚構は現実になる。
あらゆる怪談は人間から生まれる。つまり結局人間が1番怖いと言っていい。
これが例えば地下世界の迷宮に蠢く魔物とか、急峻な山に隠れ住んで人を襲う怪物とかなら正直何も怖くない。なぜなら、そんなものはいないし、万一いたとしても、私は彼らの住む場所へ行く用事はないからだ。人間はそうではない。そこら中にいる。だから怖い。
世の中には、生きている人間も多いが、死んだ人間はもっと多い。これから生まれる人間ももっと多いだろう。それを思うと私は怖くなる。この何もない中空に、未だ生まれざる存在がひしめきあい、無数の嬰児の輪郭のない歪んだ顔が蠢き合うのを見る。そしてどうしようもなく恐ろしくなる。彼らは見えないがいる。それらは在って無く、無いのに在る。想像力の豊かな人ほど、なんてことはない日常の裏に潜む未存在を感じ取り、恐怖する。それらは、死角からこちらを見ている。
ここでふと思う。なぜ、人間はなぜ怖いものに手を出すのか。
それは好奇心からではないか。ホラー作品でも現実世界でも、好奇心で人が死ぬことが多いが、それはもはや生物としての欠陥にも思える。
それなのになぜ人間に好奇心が備わっているかというと、好奇心は、未知を既知にするものだからではないかと思う。専門家ではないので詳しいことはわからないが、あながち間違いではないと思う。
未開の大海原へ繰り出す冒険者がいなければ、いまでも海には淵があると信じられていたかもしれないし、今、ナマコやタコやフグをおいしく食べられるのは、最初に食べてみようと思った人(フグは何人も死んだ)のおかげだと言える。大きい眼で見れば好奇心は人間に必要不可欠だ。
当時、本を手に取って『残穢』とはどんなものだろうかと気になったかつての私の好奇心は満たされた。しかしその代わりに、最近また、時折畳を摺るような音が聞こえるようになった。一度見てしまったものを見なかったことにできないのと同じで、気のせいだとわかっていても、聞こえてくるその音を消す術は、私には、全くない。
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