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第1章 狭心症手術闘病記


平成31年1月29日 火曜日

1月29日、ついに入院する日がやって来た。
幸い天気は晴れていて、まあまあである。
庭にある葉を落とした寒々とした木々だけが少し、風に揺れていた。
時より、メジロらしき小鳥が、近くの枝に止まって、チュンチュンと鳴いている。


私が居る場所は、2階のベランダである。      
その場所は、小さな丘の上にあるため、南側の眺めは、まずまずである。
昨夜から、なんだか寝つかれず、布団に入ってもなかなか眠れなかったと思う。おそらく、午後11時過ぎになっていたであろう。


普段、強気な発言をしていて、他の人には、自分は「だいじょうぶだぁ」と、志村けんの、ギャグのように言っていたけれど、やはり心のどこかでは、不安があったのであろう。


私は、普段の寝つきは早いほうで、午後9時過ぎには、ほとんど寝ており、午前5時には起きていた。
毎日、同じ時間帯を過ごしていたけれど、今日は、違っていたのである。
私は普段、毎朝、同室の人と一緒に午前5時30分に部屋の電気をつける生活をしている。
それは、今居るところが、寮であるからです。


起床時間が午前6時と決められており、それ以前は、静かに行動をしなくてはならないからです。
同寮者の数名も、今日、私が心臓の病気で入院して、その後、手術をすることを知っており、励ましの言葉を贈ってくれますが、今回に限っては、あまりそれを思い出したくない気分なので、少し放っておいて欲しいと、思うところもありました。


 時間が何故か、普段より早く通過していく感じで、入院準備をしていました。実は、主な準備は前日までに行っていたので、余りやることはなかったのですが、何かやっていないと、不安を感じそうで心配でした。
午後1時30分、妹が、車で迎えに来てくれたので、荷物を積み込み、同寮者の人達に、見送られながら病院へ向かいました。


病院に、午後2時過ぎに着いて、4階の受付へ声を掛けて、入院患者である旨を伝えました。
元気な明るい声の看護師さんが、応対してくれて、少し落ち着いた感じでした。私は、病院に来た以上、体を治して帰ることが、一番の目的であると、自分に言い聞かせて覚悟を決めました。


病室に案内されると4人部屋でした。
入院する前の説明で、「特別室」もあることは聞いていましたが、1日の追加料金が26,000円以上で、とても私の様な者には、手の届かない部屋です。


後で、一度見せてもらったのですが、まるでホテルのスイートルームの様な形式で、そこは、ガラスの自動ドアで廊下が仕切られており、一般の人は、入室できない様になっているコーナーの中に、特別室はありました。
部屋の間取りは、2LDK位の部屋の大きさで、その部屋、専用のトイレとお風呂が付いて、部屋の造りも豪華でした。


病室には、定員4人の内、私を含めて3人の人が入室していました。
私以外は、既に、手術を終えている人達で、体中管(くだ)を付けられて、点滴袋をつけて、移動しなくてはならない姿をしていました。


私も、すぐ管だらけの姿に変えられてしまうかと、思うと憂うつでした。
そう言えば、入院前の説明で、体中に、8本の管をつけられて手術室から出てくると、言われた様な気がします。

 部屋に、案内して下さった看護婦さんは、今は、看護師と呼ぶそうですが、私は、あえて看護婦さんと呼びます。
部屋に、案内して下さった明るい声の看護婦さんは、まだ、20代前半位でした。


そのあとの、これからの予定を、色々説明されましたが、あまり記憶に残らなくて、その後、順番に色んな看護婦さんが、説明に来ることだけは判ったので、次の人を待つことにしました。
やっぱり、部屋に入った時のショックが少しある様でした。


少し待っていると、また違う看護婦さんがやって来ました。
それは、この部屋の担当の看護婦さんでした。私は、これから、おそらく、何人もの人達が部屋に訪れて、色々話をしていくのだろうと、予測したので、これから来る人達を区別する為に、ニックネームを、付けたいと思い、これから来る人達をじっと、観察することにしました。
一番、最初の人が、この看護婦さんでした。


 年齢は、20代後半位で、これは本人に失礼かもしれませんが、茶髪の顔立ちの整った女性で、元ヤンの様な感じがしました。
ですから、第一号は、元ヤン看護婦さんと決めました。
元ヤンは、部屋の各ベッドを、スムーズに行き来して、色々声をかけながら、自分の仕事をこなしている様子でした。


 私の所に、挨拶に来られた時には、安心させる為か、笑顔で対応をしてくれました。
若い男性なら誤解して、誰かのギャグみたいに、「惚れてまうやろ~」と、言いそうでした。
これから、手術までの予定を説明してくれた後、次の人にバトンタッチをすることを伝えてから、元ヤンが去って行きました。


次に来られたのは、女性の栄養士さんでした。
彼女は、真面目で一生懸命な性格の人のようで、その彼女が、入院中と退院後の食事について色々説明してくれました。


私は、この栄養士さんを見た事が有りました。
入院前の食事改善の説明をしてくた人でした。
その人は、綺麗な人でしたが、髪が乱れており、それでも一生懸命に説明していました。


ですから、彼女の事を、乱れ髪のクィーンと呼ぶことにしました。
私は、クィーンに日頃、糖尿病で味付けが薄く、おいしくない食事をしている愚痴をこぼし、少しいじわるに応対していました。
日頃の食事の不満に、八つ当たりをしたのは、わかっていました。
でも、その時クィーンは、私の不満や愚痴を一生懸命聞いてくれ、答えてくれました。


その姿が、とても好感が持て、親近感を感じていたので、少し、しつこく話をしたのだと思います。
クィーンには、意地の悪い事を、しているような気がして来たので、愚痴をやめることにしました。


そして、お礼を言って、素直にクィーンの話を、聞くことにしました。
ごめんね、いじわるを言って。
その後、夕食の時間が近づいてきた時に、食事担当の人が、お茶を入れに来られた。ここの規則で、水分を取った時と、食事を取った時の記録を、毎回記入していかなくてはならない様でした。


病院から借りた、前開きの紐の付いた寝間着を着て、その日は、食後早めに眠る事にしました。
疲れたからだと思う。


その後、私は何度か、ナースコールの音で目を覚ましました。
同室の、歳のいった、70過ぎくらいの老人が、体調が悪そうで、何度も、ナースコールをして看護婦さんを呼んでいたからです。
始めは、体についている点滴を勝手に外そうとして、看護婦さんに注意され、2回目は、「トイレに行きたいが、管が体に付いていて行けない」、と文句を言い、また、点滴を外そうとして、怒られていました。


かなり、呆けた爺さんだと思って見ていました。
そのうち、あまりしつこいので、「早く出ていけ、呆け老人」と、心の中で叫んでいました。
私は、早く病院に慣れる為に、眠りたかったのです。


成31年1月30日水曜日

今朝、毎日の日課の様で、朝5時には目が覚めました、いつもの習慣である。ここは、午前6時起床なので、もう少しベッドで横になっていることにした。
また、いつものように、その日の、スケジュールを、携帯電話のメモ機能で記録しているので、その確認と、修正をしていた。


いろいろ、今後の、スケジュールを頭の中で考えている内に、午前6時を知らせる、携帯のアラームが鳴り、あっという間に、過ぎていた時間に驚かされていました。
その後、しばらくして、カーテンを、開けに来てくれた看護婦さんは、明るい声で挨拶してくれました。


見れば、まだ、20代前半で、将来性のある、笑顔のかわいい人でした。
彼女の事は、今後、見習い天使と呼ぶことにします。
見習い天使は、笑顔を見せながら、カーテンを開けていました。


私は、見習い天使に、「起きている人の、部屋のカーテンから開けるの?」と、声をかけ尋ねた。
そうすると彼女は、そうです、起きている人のカーテンから開けて、朝の光を、部屋に入れるのだと爽やかに言い、そのまま次の部屋に向かっていきました。


その日の、お昼の担当の看護婦さんが挨拶に来られた。
なかなか、厳しそうな感じがする彼女は、30代中頃で、はきはき・てきぱきと言葉を発して、行動する人でした。
初めは、忙しそうでしたので、すぐ次の部屋へ、行ってしまいましたが、急に、また戻ってきました。


その時です。荷物を整理し、上着のコートを片付けていた時に、ポケットの中に、少しクッキーらしきものが残っていました。
それを見て、今、食べておかないと、暫く食べられないと思い、すぐに口の中に入れ、食べていました。
ここの病院だけではないだろうけど、入院中はお菓子や、間食が禁止されていました。
そこへ、突然、彼女がカーテンを開けて入ってきました。


私は、まだ、そんなに罪悪感がなかったので、あまり隠しもしませんでした。
次の瞬間、「何を食べているのですか?」、の大きな声がしました。
お菓子を、食べたのが見つかってしまったのです。


私は、驚き、残っていたクッキーの話をし、これが最後のお菓子である旨を説明しました。
彼女は、疑い深く「本当ですか?」と確認し、「二度とやらないでください」、と言い、その日の検査をして行きました。
最悪の出会いでした。


でも彼女は、厳しいだけでなく、細かい事に気がつき、気配りをして下さる人でした。
ですから、私は、彼女のことを、気配りの天使と呼ぶことにしました。
その後は、明日、手術である私を気遣って、色々心配りをしてくれました。
夜には、「眠れますか?もし、眠れない様でしたら薬がありますから、言ってくださいね」、と笑顔で声を掛けてくれました。


はじめは、最悪の出会いでしたが、いい看護婦さんに当たってよかったと思いました。
そして、その日は、手術前の夜でしたが、安心したのか、ゆっくり眠れました。
おっと忘れる所でした。
 

今日は、昼間、さまざまな検査を受けていました。
それは、手術前の、状態をチェックする為に、行うものだそうで、かなり種類がありました。
検査は2階にある、一般外来患者を、診察する場所で行われます。


最初に心電図を取り、次に肺活量の検査をしました。
同じ看護婦さんが担当でしたが、毎回、一つ検査を受けると、ロビーで待たされました。


ロビーには、3~4人の人が常に待っていました。
肺活量の検査は、初めて受けました。
前に受けたのは、おそらく、数十年前の、小・中学生の頃ではないかと、思う位昔の話です。
その時は、水の入った大きな器に、息を吹き込んで、機械に、空気が入った分回転して、肺活量を測った記憶があります。
今はまったく別の方法で検査します。


担当の看護婦さんに、合うニックネームを、いつものように考えました。
彼女は、検査の時に、色々、かけ声をかけたり、指示をしたりしていました。
その話し方が、いつも見ている、ゲゲゲの鬼太郎に出てくる、ねこ娘というキャラクターに似ている気がしたので、彼女のことを肺活量のねこ娘と呼ぶことにしました。
肺活量の検査器には、吹くところがホースで繋がった、小さな筒状の吹き込み口のついたものを、口に咥えるものでした。


ねこ娘が、指示を出して、息を吸ったり吐いたり、するように言いました。
はじめに、「息を吸って・吐いて・大きく吸って・息が出来なくなるまで吐いて」、と指示され、その通りにしました。


次は、今まで経験の無い方法を指示されました。
息を大きく吸った後に、いっきに、おもいきり一度に息を吐き出すように言われました。


私は、一度で理解できず、2度3度と聞き返しました。
要は、吸った息を、いっきに、おもいきり吐き出せとのことでした。
やっと理解した私は、ねこ娘の、指示にしたがい検査を終えました。


次の検査の為、ロビーの椅子に座って待っていると、名前が呼ばれました。
今度は、エコー検査で、2回目の経験になります。
エコー検査は、超音波を利用して、心臓や血液の流れを見て、異常がないか、目で見る検査です。


女性の先生から、少し説明を受けましたが、あまりわからなくて、言われたまま診察台の上に乗りました。
彼女が話をしたり、取る行動は、幼いときに、母が、私を、愛して、話しかけてくれていた時のような感じがしました。
ですから、この先生のことは、エコー検査の母と呼ぶことにします。
エコー検査の母は、優しく左を向いてと言って、超音波の検査器を、胸にけっこう長い時間あてていました。


体の向きを変えてと、言われてから、私も時々、エコー検査の機器の画面をのぞき見をしていましたが、部屋が暗くされており、暗い画面にわずかに黒い物体が映っていただけで、よくわかりませんでした。
後で聞いたのですが、エコー検査の母も、始めはわからなかったそうで、画面の見方を、先輩に教わったそうです。
その後、また、ロビーの椅子で、次の検査を待っていました。


次は、X線検査で、黒服の若い人が担当でした。
いつものように、X線検査は普通に終わりました。
最後に、リハビリ室に案内され、背が高く、20代後半くらいの、色白の、理学療法師の男性に、手術前の筋力、筋肉量、握力の強さなどを検査されました。
そのついでのように、検査中に、生年月日や・今居る所・今日の日付など、色々な質問をされました。


おそらく、認知症の調査なのだと思いました。
私は、かろうじて全部の質問に答えましたが、私の後の人の、話し声が聞こえてきた中では、少し答えられない方もいたようでした。
この担当の彼は、見た目が、細長く色白でしたので、もやしの、理学療法師と呼ぶことにしました。
これでやっと一連の手術前の検査が終了です。


部屋に戻ると、夜の担当の看護婦さんが挨拶に来ました。「今夜の担当です、宜しくお願いします」、と言って来ました。
よく見ると、何かにつけてマイペースな人で、感情を表に出さない事務的な人でした。
ですから、私は、彼女のことを能面看護婦と呼ぶことにしました。
色々な人が一つの病院内にいるな~と内心、面白がっていました。
明日は、いよいよ手術の日です。


私は、糖尿病ですので、お医者さんから手術前の説明で、血管年齢が、80歳と言われました。
普通の人(糖尿病の無い人)の場合には、糖尿病の人のように、身体全体に、何か所も、血流の流れの悪い所が、発生することなく、わずかなか所で済むそうです。


ですから、手術も私が受ける、バイパス手術ではなく、カテーテル手術で済み、バルーンと呼ばれる、血管内を拡張させる方法や、ステントと呼ばれる、網状になった小さな筒の金属を、血管内へ入れて、血流を良くする方法があります。 

 
カテーテル手術の場合は、腕や足の血管から、カテーテルと呼ばれる器具を、体内に入れて手術するので、だいたい一泊二日で退院できるそうです。
でも、糖尿病の人の場合では、すぐに、あちらこちらの血管が、狭くなり、1~2年で再度、手術をする事になるだろうと言われています。


それに、私の場合は、心臓から3本出ている、太い血管の内1本は、二又に分か
れる所に、狭い部分があり、ステントも入れられないそうなので、バイパス手術をすることになりました。
お医者さん達の話によると、循環器内科の名医は、手術後20年位は持つと言い、かかりつけ医は、10年は持つと言いましたので、決断しました。


明日は、人生初の心臓の手術です。
今まで、生きてきた中で、初めての経験です。
今後、どういう運命になろうと、素直に受け入れたいと、思っています。


この新しい試練に、どう立ち向かうかは、人それぞれだと思いますが、私は、泣き言を言わず、悲観せず、運命をそのまま受け入れ、その後があれば何かを得て、生きていきたいと、考えています。
でも、やはり、少しは不安です。
もう、何も考えずに、眠ることにしました。


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狭心症手術の入院闘病日記です。 少しでも、参考になれば、幸いです。