小さな癌のものがたり その1 発症
熱が出て一週間下がらなかった。節々がだるくインフルエンザのような症状だった。令和四年二月二十二日オミクロン株がピークを迎えている時期だった。しかし咳も全く出ず、鼻水もなかった。この時はコロナじゃないといいなと思っていた。自分が所属している事業所では、コロナ禍が始まって二年以上経っていたがまだ一人も感染者が出ていなかった。皆が自分が最初の感染者にはなりたくないと思っていた。自分も同じように一号にはなりたくないという位の気持ちだった。一回目のPCR検査は陰性だった。同時に受けたインフルエンザの抗原検査も陰性だった。
コロナではないと確信したが、心に引っかかることがあった。背中のダルさが続いていたことだ。自分は二十三歳で母親を亡くしている。今の自分よりニ歳上、五十一歳の春に腎臓結石の発見が遅れ、敗血症になり衰弱してしまった。手術に耐える全身が腫れ上がった母親の姿は今でも脳裏に焼き付いている。大学を卒業して、これから東京に旅立つ数日前だった。手術が終わり意識が戻った時、東京で地下鉄サリン事件が起きていて、「これからホントに東京行くの?」と心配された。
四十九歳の自分も同じように腎臓結石が起きてないだろうかと疑い、熱が下がったあとかかりつけ医に詳しい原因調査を相談した。個人病院だが、心臓内科医である医師は、まず血液検査を薦めた。結果を見て、白血球の多さに驚いていた。基準の一.六倍あった。赤血球、血小板、カリウムなども多く首を傾げていた。熱の原因の細菌の影響が残っている可能性もあり、一週間後に再検査をしてから今後のことを考えることになった。
一週間後に血液の再検査とCT撮影を受けた。CTは問題なかった。らしい、自分で見ても何だか全くわからないが問題ないらしい。血液検査の結果は白血球は基準の一.一倍まで下がったが、赤血球、血小板、カリウムは殆ど減少せず、何かがおかしいかもしれないが、何科に相談すればよいか判断がつかないので、受け皿の広い総合診療内科のある総合病院に紹介してもらうことになった。近くの大学附属病院だった。
一週間後の三月十四日午前半休をもらって総合病院へ行った。検査だけ受けて半日で終わり、午後から在宅ワークをするつもりでいた。ホワイトデーだったので帰りに近くのコサイで妻と二人の子供にケーキとシュークリームを買って帰るつもりだった。つまり再検査で何か原因が解ってもそんな大した結果ではないと思い込んでいた。熱も下がって二週間経つので、血液検査で前回まで高かった数値が白血球と同じように下がっていて、何か細菌のせいだったという結論になるのではと思っていた。
総合病院にいく前日、関係ないかもしれないが、最近気になっていることを伝えた方が良いと思い整理していた。夏頃から風呂上がりに手足が痒くなることが増えて、タオルで全身を洗えなくなり、冬になると仕事帰り車を運転している間にも痒みを感じていた。仕事の終わりに目の充血も多かったことなどについて。手足が痒くなるのは加齢によるものだと思って、風呂上がりにローションを、塗るようにしていた。以前テレビでスキンケア芸人を名乗っていた中年達と同じようになったのだと思っていた。他には発熱後背中から腰にかけてずっとだるさが残っていることなども付け加えた。
病院では最初に尿検査、血液検査を受けた後、総合診療内科で診察を受けた。医師から関係ないと思ってることでもよいから何でも気になっていることを話すように言われたので、昨夜整理したことと、発熱してからの経緯、母親の病気のことを説明した。診察の最後に、疑わしい病気があるということでCT撮影もすることになった。前のCTでは無かった造影剤を点滴で入れての撮影だった。造影剤は初めての経験だった。事前に体が熱くなると説明を受けた。撮影直前に造影剤を流し込まれると、最初に喉が熱くなり、段々体の下の方に拡がるのを感じた。一番熱くなったのは睾丸だった。まだ呑気に血液のよく流れるところが熱くなるんだなとか考えていた。
CTの後、再度診察を受けて、各検査結果と話した内容から、「多血症」という病気の可能性が高いと説明された。初めて聞いた病名だった。午後もう一度腰回りを重点にCT撮影をすることになった。これで午後から仕事をすることは無くなった。造影剤をまた使うので昼食は最小限にするように指示を受け、売店のサンドウィッチだけになった。段々自分の体に思った以上の何かが起きていると感じるようになってきたが、この時の感想は、「やはり総合病院にきてよかった。原因がわかったかも」というものだった。(その1完)
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