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2023/07/08 映画(ボヘミアン)

映画(ボヘミアン)


友人宅で酒を飲みながら『ボヘミアン・ラプソディ』を見た。曲がりなりにもロックファンの端くれみたいなムーブをたまにするのであれば、今見たのは怠慢と言われても仕方がないタイミングと言えるのだが。
映画としてはよくまとまっていた。タイトルでもある「Bohemian Rhapsody」を核に、"風のように"縛られないが故に孤独な男フレディ・マーキュリーが、ソロを経てクイーンへと再び回帰し、ライブ・エイドという大舞台で"一つになった"観客とともに、歴史的な瞬間の輝きを見せつける。このライブ・エイドのシーンは山場なだけあってセンセーショナルでドラマティック。死を覚悟したフレディが楽曲「Bohemian Rhapsody」で「さようなら 行かなくちゃ」なんて歌うのは、アニメのエンディングの歌詞が終盤になって意味が立ち上がってくるようなシーンで、グッとくる。

気になったのは、物語としての完成度故にか、あまりにも物語でありすぎたところである。「Bohemian Rhapsody」が(物語上の)核であるあまり、他のQUEENのキャリアでそこだけが特別なのではないかという印象だったし、フレディソロは明らかにQUEENへと戻る踏み台でしかない。元々詳しくない程度のためこういうのもフェアではないが、鑑賞後に軽く調べても相当な脚色があったようで、QUEENというバンドやフレディの素顔に迫る感じはあまりしなかった。個人的には音楽ファンとして音楽シーンの中でのQUEENの立ち位置だとか、もっとフラットな彼らの音楽的変遷が描かれることを期待していたのかもしれない。例えば、レーベルを中心にマンチェスターのシーンを描いた『24 hour party people』や、もっと言えばドキュメンタリー映画であるところの『Sparks Brothers』のような。(それこそ、映画にて奇抜とされたロックとオペラの融合という行為であれば、Sparksが若干の先駆者とも言える!)
この映画は物語として面白いが故に、日本史におけるいわゆる「司馬史観」だとか、三国志の正史に対する「演義史観」のようなものを、どうしても生み出してしまうのではないか。他メンバーが存命の中、故人であるフレディ・マーキュリーが神格化されることに納得はあるものの、どこか作られた感じがしてしまったのも事実ではある。逆に、メンバーが存命ぐらいの年代の話だからそう思うのかもしれないが。例えば、織田信長が大胆な解釈をされていても、それは自然と物語として受け取るだろう。もちろん、本作についてもそうとわかって楽しんでいる人が大半なのだろうとも思うのだが。

とはいえ、シンプルに『Another One Bites the Dust』や『Don't Stop Me Now』とかが流れたときはアガった! 個人的には物足りなさもあったものの、この映画を見てQUEENに関心を持つ人が続出したのも頷ける映画だなと思う。

ところで音楽といえば今日は10時前に起きてMyGOちゃんの一般チケチャレンジをしたのだが惨敗だった。今回はアニメくんらしく、大人しく在宅配信で行くか〜と思いつつ、なんかライブ気分になっちゃったし東京の追加公演のスパークス行っちゃおうかな……。

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