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2022/06/12 本(魔女)・アニメ

本(魔女)

『魔女狩り』(著:森島恒雄)を読んだ。ヨーロッパ史に関してはかなり無知なのだが、読みやすい文でさらさらと読むことができ非常に面白かった。
十五―十七世紀に吹き荒れていた魔女狩りの嵐の様子を、協会、異端審問、魔女裁判などの背景や実態を交えつつ解説する。どちらかといえば権力側の話題が多く、異端審問や魔女の扱いの流れがわかりやすかったが、民衆目線の当時の価値観・文化的な部分に関してはそれほど書かれておらず、魔女狩りに関してはこちらの側の研究も進んでるみたいな話も見かけるので、わりと気になるところ。
今となっては迷信であろうと一笑に付するような魔女が本当に信じられていた時代。教会の腐敗っぷりの段ではあまりの堕落っぷりに酷いこともあるものだ、とまだ笑っていられたものだが、拷問やそれによる「自白」、刑罰の段になるとそのにわかに信じがたい残虐性にげっそりする。処刑にかかる費用表の引用をもって拷問手法の実在を説いているページなんてくらくらしてしまう。2度に渡って筆者の引用するパスカルの「人間は宗教的信念をもってするときほど、喜び勇んで、徹底的に、悪を行うことはない。」(『パンセ』)との言葉が重くのしかかった。本著の罪ではなく、わたし自身の低俗さとして、読書中はそうしたセンセーショナルさに興味を掻き立てられて読んでいた部分は否定できないが、それにしても気が滅入りそうにもなってしまう内容であった。罪のない敬虔な人々が「自白」により無惨にも処刑され、裁判官が私腹を肥やしていく話を聞くと、つい「物語」として「どうかせめて死後の世界では、神が正しき裁きをしてくださいますように……」などと救いを求めたくなってしまうぐらいだが、これが現実の話というのだからやるせない。
エピローグで筆者はこの魔女狩りがルネサンス運動や革新的なプロテスタントの起こりと時期を同じくしていたことに触れる。現代科学の礎を築いた知の巨人たちも、それと同時に魔女狩りという暗黒に飲まれており、先進的な歩みを片方の足で進めながら、一方でもう片足は中性的価値観の沼からいかに未だ抜け出せていなかったか、ということを説明する。この日記の最初の方で「迷信」という言葉を使ったが、わたしたち人間がそうした、後世から見れば信じられないような「迷信」の沼に(それと全く気がつかないうちに!)どっぷりと浸かってしまうことがあり得るのだ、ということには恐ろしさを感じる。多分それは、人間として逃れ得ないことなのだと思うので、わたしたちは常に警戒しなくてはならない。

魔女裁判の消滅を、単純に科学の勝利とするのは早計である。それには別の長い物語が必要となる。二十世紀的科学の時代が、二十世紀的迷信の魔女裁判を産まないとは断言できないからである。

『魔女狩り』(著:森島恒雄)

この本は50年ほど前に書かれたものらしいが、現代においてもデマが跋扈することなんて珍しくはないわけで。本の感想を眺めていたら「やはりこれだからキリスト教などの一神教はダメなのだ、やはり日本の多神教の寛容さがなくては!」というような文を見かけて、人間が当たり前のように感じる「正しさ」のなんと脆く危ういことだろうか……とつくづく思わざるを得ない。

アニメ

このヒ10、薔薇王22、令BRS11、モブせか11。

薔薇王、バッキンガムの最期。表情の芝居が抜群に良く、流石に見入ってしまう。助かるかなと思わせての悲劇的結末を予想していたが、バッキンガム自身が「リチャードの茨を全て排除する」と自らを処刑台に進ませるとは、完全に参ってしまった。マジでいいキャラだったな……処刑台で自ら斧を持って涙を流すリチャードもまた……。久々に登場人物の死でマジ泣きしちゃったかもしれない。指輪がヘンリー(ティレル)に渡るわけだが、このヘンリーという名前で被せてくるドラマの作りも本当に上手い。リッチモンドもヘンリー・テューダーということでヘンリーの名を持つのがまた……。

モブせか、オリヴィアとリオンのあれこれに決着がつく。アニメは結構ギリギリのアニメなんだけど、とはいえ低カロリーなりに頑張っており、やっぱ普通に好きなアニメなんだよな……。オリヴィアちゃんの告白シーン、普通にちょっと涙ぐんじゃった。今日は涙を流してばっかりだな。

アニメの合間にキーボードの掃除ができてよかった。新キーボードの到着が楽しみ……。

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