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2022/11/12 映画(すずめの戸締まり)

映画(すずめの戸締まり)

今日は人とすずめを見に行って別れて深夜労働に突入してこれを書いているので、映画のネタバレを恐れておれの日記が読めないという日記藻中を読んでくださっている方も映画の感想以外に書くことが無い日なので安心していただきたい!



ということで公開されたので見てきた。いやー良かったと思う。公開前は「新海誠の最高傑作」なんて謳い文句はどうかと思っていたものだった(し、これ自体は正直今もどうかとは思う)が、見終わってみるとそういうコピーを考えた理由もわかる。まぁ、そもそも君の名は。以降からしか見ていないクソにわかな自分がこの話をするのもどうかという話なのだが、とはいえこのコピーは君の名は。以降の客に向けたものであろう。
で、なぜこれが頷けると感じたかというと、新海誠フィルムの美しい情景描写そのものに作品としての意義が大きかったというのが一つで、もう一つはロードムービー的な作りによって、情景が九州から東北に至るまで描かれることになったというスケールの広がりである。田舎と東京、という対立軸からも離れて、この美しさが日本を覆っているのは、もはや疑うべくなく日本の代表的なアニメ監督となった新海監督の次のステージを感じさせるというか、大衆からの期待をきっちり背負った結果、という感触がある。

さて、劇場公開に先立ち「地震警報の音が流れるのでご了承ください」なんて告知も飛んでいたが、この作品は『君の名は。』に続いて再び震災をテーマにした作品であった。いや、そこに続く『天気の子』も結局そういうところあるかな。かつての『君の名は。』での東日本大震災は失われた村々の写真展のシーンに東北のものが映る……という匂わせ程度ではあったものの、今回はさらに直球でその要素を扱っている。
とはいえ、震災そのものの話というか、その恐ろしさを軸に据えているかというと自分はそうは思っていない。確かに映画における派手でスペクタクルな要素としての巨大ミミズによる地震と、それを回避すべく動く主人公たち……という展開はあるのだが、ここが最も全面に出てくるのは東京編で、クライマックスの東北編ではすずめの内面と向かい合っていく話になるわけで。むしろそうした被害の恐ろしさを直に描いているのは、身近な人がいなくなり、見知った場所が失われることを描いた2016年の『君の名は。』の方であると思う。
この作品はそこからさらに6年、映画でも語られるように「12年前の震災」という、時間的にもう少しだけ離れたところにある悲劇と向かい合う話である。

とにかくこの作品は過去へと向かう目線が至るところにある。全国の後戸が廃墟(加えて温泉街、遊園地というのは日本で少なくなっていく「少し古い」レジャーではないか)にあるのもそうだし、閉じるときに「かつてここにいた人たちの姿を思い浮かべる」というのも直球の設定だと思う。芹沢くんが懐メロ好きなのもその一環で、今に始まったことでもないが伝奇要素にもそういうところがあるだろう。そしてこうした過去への目配せを感じる要素は、物語としてはすずめの「12年前を思い出す」というクライマックスへと繋がっていくわけだ。土を掘り起こし(ここも地震とミミズに繋がる土のモチーフがある)日記を取り出し、あの日の情景を思い出す。最終的には子供の頃の自分と再開することで、自らの中の母親を喪った悲しみと、その先にある今に向き合うことになる。ファンタジー的なシチュエーションだが、これも自己との対話めいていて、ここもまた「思い出す」というアクションの流れにあると捉えられる。
だからこそ「思い出す」ということが何よりもこの作品で重要なのだと思う。いや、もう少し正確に言えば「過去を知る」であろうか。過去というのは、少し遠いのである。震災を直球に取り扱っていながらも、被害の恐ろしさの描写から遠ざかっていることも、今と過去に隔たる距離感を生み出すことに繋がっているのではないかと思う。そして、作品を日本全国というスケールの舞台にしたことで、震災のみならず、忘れ去られた様々なものに対しての目線は同時に存在している。すずめにとって震災は自らのことであるわけだが、神戸の遊園地はそうではないわけである。被災者だけではなくもっと広く、今生きる人に過去を振り向かせる、そういうことを描いた映画ではなかろうか。
どうしたって、時間が経てば人の記憶というものは薄れてしまう。他のことに目が移ることだってある。しかし身近なものでないことであろうとも、私たちは知ることで、そこにあった痛みをいつでも知っていくことができる。

すずめたちが日本を縦断していく流れで現地の人々と知り合っていくわけだが、そうした縁というのは人々の意識の断絶を繋いでいくものでもあり、この映画が国民的ヒット作を期待されて世に出たポジションであることで持っている役割というか、震災を扱うことの意義でもあるだろう。
ところで、この意識の差というか、認識の差というのも作中で度々顔を覗かせる。巨大ミミズが見えるのはすずめだけで、それが見えないクラスメイトからは彼女は奇異の目で見られてしまう。すずめ(たち)には世界から浮いている感があって、東京の道のど真ん中で駆けて轢かれそうになるシーンはアクション的なケレン味を出しつつも世界から浮いている表現にも繋がっていたように思う。
東北の地では芹沢くんは「綺麗なところ」と表現するのだが、すずめにとって母を喪ったここは忌むべき土地で、悲劇の象徴であるわけで、こういうところにも認識のズレがある。この芹沢くんの発言がよろしくないかというとそういうわけではけしてなく、その美しさもまた事実だと思うのだが、しかしそこにあった痛みを知ることはできるわけだよな。すずめという一人の人間の苦しみを軸に映画を見ることで、我々もまた一つ知ることができるのだと思う。

過去へと向かうことと合わせて、これが「行きて帰りし物語」なのも良い。九州から四国、中国、関東、そして東北。ロードムービーとして描かれるすずめたちの道のりなわけだが、しかしこの東北というのはすずめの生まれ故郷、すなわち過去でもあり、行くことが帰ることになる、という逆転現象が起きている。九州では自転車、四国ではバイク、兵庫では車、そこから東京まで新幹線……というグレードアップを繰り返しながら、東北へは再び車、そして再び自転車……と変化している。この乗り物の流れは、すずめの位置を表現しているのではないだろうか。宮城のすずめは宮崎と同じ位置にいるわけである(ところで、宮崎という舞台も宮城を連想させる名前として採用されたのではないかと思っている)
エンディングですずめは帰るわけだけれど、過去を知ったすずめの帰路は、新たな未来へと進むものでもある。今まで会ってきた人々と再会していく演出はかなり好きだったなぁ。
あとここに関しては、開ける/閉めるというギミックによって玄関を連想させ、行き・帰るということと絡めていく扉のモチーフの使い方もお見事だった。

自分はこの映画を非当事者としての立場で見ることになった。だから、当事者の方がどう思うのかははっきり言ってわからない。自分が感傷を感じたところだって、その感傷は結局の所他人事だからではないのか、という怖さは正直ある。扱っているテーマが繊細であるから、いろんな意見が出てくるのも当然だし、感想を口にしにくい……という反応が公開当日に散見されたことにも納得感がある。
12年という年月生きて、すずめは自分の人生が悲しみだけじゃなく、希望があったということに気がつくことができた。伯母さんとの12年だって、苦しみもあったけれど、それだけではなかった。でも今でも2011年の悲しみをもっと身近に抱えている人もいるだろう。親を喪った子どもは、すずめと同じように世界を美しく感じられるのだろうか。それはわからない。
自分にとって東日本大震災というのは、当事者でないなりにはっきりと覚えている出来事でもある。しかしその前にももっと多くの悲劇があって、そのことをどこか遠くに感じてしまっていたりもする。世代的なこととはいえ、恐らく同い年でも、当事者であればそこには痛みが確かにあるはずなのだ。
今、当事者ではない、17歳の人というのは、東日本大震災のことを、どう思っているのだろうか。
いろんな人、特に若い人に見てもらいたい映画だなと、柄にもなく思った。

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