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2023/06/18 本(ライ麦畑)・アニメ

本(ライ麦畑)

『キャッチャー・イン・ザ・ライ』(著:J.D. サリンジャー 訳:村上春樹)を読んだ。いつかは読みたいなと思っていた小説だったがようやく読めたなという感じ。
正直言って、はじめ主人公ホールデンの偏屈さにはなかなか面食らったし、最初の数十ページを読んだ時に、ひたすら彼の書いた周囲への鬱憤や不満を読まされているような心地がして、本当にこれって完走できるのか? ぐらいに思ってしまった。
ところが、不思議なもので、読み進めていくうちに彼の抱える孤独や渇望、そういうものが次第に見えてきて、気がついたら――友達になりたいかと言えばまた別かもしれないが――しかし彼のことをどこか身近にも感じるようになっていた。というかもはやむしろ、この長い彼からの手紙を読んだことで、私はいくらか友人と言っても差し支えないのではないだろうか。そしてまさにこの小説はこの形式こそが大切なのであり、恐らくあらすじを読んでもこの作品が何なのかということはさっぱり理解できないのではないか、と思った(まあ、大抵の媒体にきっちりと即した作品というのは、そういうものだろうが)

正直、この小説を読みながら、それほど楽しんだかはわからない。ホールデンのユーモアにくすっとすることもあったが、それ以上に彼の視野の狭さにもやもやすることも多かった。そして大半は、そのようなホールデンのとりとめのない話がつらつらと語られているのみなのである。この小説には、わかりやすい事件の解決だとか、そういうものは今ひとつ存在しないのである。しかしこの小説が手紙であるならば、このとりとめのなさこそが大切で、だからこそホールデンにとってのREALを感じることもできるような気もしている。
面白いなと思ったのは彼の妙なところにこだわることである。それはかつて遊んでいた女の子ジェーンのチェスの話だったり、冬の間いなくなるアヒルへの疑問だったりする。正直自分でも今ひとつわからないが、彼のこういうどうでもよさそうなことこそに神経質になることに魅力を感じたし、面白さも感じた。でもこのあたりのことって、彼の周囲の人には今ひとつ伝わらなく、そこに彼の悲哀がある。ホールデンは繰り返し「知性ある会話」というようなことを言うが、結局のところツーカー(古いかな)で内輪的にコミュニケーションできる人が、あまりにもいないというのが彼の孤独じゃあないかと思う。
ホールデン主観の物語だから、あまり外側からみたホールデン像について最初確信を持てなかったけれど、後半、あらゆるものに苛立ちを覚えていたホールデンが、寧ろ周囲からは”変”とされていることがわかってくる。やっぱり、こういうところは悲しいなと思う。彼の寂しさ、切実さがある。

「大切なものはないのか」と妹のフィービーに問われた時、ホールデンはジェームズ・キャッスルのことを思い出している。彼はホールデンと大きな関わりがあったわけではないのだけれど、ホールデンにとっても(曰く、インチキ共とは違い)真実を語るうちの一人であったことが感じられる。だからこそ、彼の気高い落下死というのはホールデンにとっていくらかショッキングだったろうし、同じくホールデンは弟アリーの死も同様に引きずっている。だからこそホールデンは、有名なライ麦畑の一節で、「僕のやる仕事はね、誰でも崖から転がり落ちそうになったら、その子をつかまえることなんだ」と語っているのだろう。
しかしラストシーン、雨に打たれながら、回転するフィービーを見て「落ちたら落ちたときのことじゃないか」と彼は語っている。ライ麦畑の捕まえ手であることをもはやホールデンは求めず、落ちてくる雨にただ打たれるように、世界をあるがまま受け入れることを決めた彼の姿がここにはあるように思える。美しいシーンだと思う。

白髪交じりの16歳。この小説は青春小説と語られることも多いが、ホールデンはまさに少年と大人の間にいる。ホールデンの望むライ麦畑の捕まえ手という役割は、大人としての彼の子どもへの慈愛でもあり、同時に子どもの彼自身が救われたいと思っているように感じられる。中途半端なホールデンは、アントリーニ先生の子どもへの慈愛を上手く受け止められないわけだ。
ところで、このホールデンには亡くなった弟アリーと、遠く離れた兄のD.B.が存在している。ここで亡き人のアリーは不可侵の無垢な子どもで、ハリウッドでつまらない仕事をしているD.B.はわきまえた大人である。それぞれが小説家だったり詩だったりと文字を書く行為をしていて、だからこれは分裂したサリンジャーを表現しているのではないかと思う。そもそも、サリンジャーのこの小説はホールデンの書いた文という体なわけで、サリンジャーとホールデンをいくらか同一視するというのは自然なことのように思える。だからこれは、自身の中の喪われた無垢な子どもと、もはや擦れてしまった大人との間にある、サリンジャーの中の16歳の少年との対話なのではないか、と思う。音楽少女だね。さよならセブンティーン。

完全に余談だが、昔私が実家で暮らしていた頃、母が好きでない小説としてこの『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を挙げていたことを覚えている。母は読書家……と言っていいのかわからないけれど、暇つぶし(これは本人曰く、そのようなスタンスで読書をしているのだ)として図書館で小説やエッセイを借りてきては日々読んでいる、というような生活をしている人だった。この本について詳しく話したわけではないが、多分わかりやすい面白さを好むのではないかなと思う母の趣味に、この本が引っかからなかったことにはなんとなく納得感がある。
実際のところ当時の私も、それこそホールデンと同じ年ぐらいの16歳の私が、この本を読んでもいまいちわからなかったんじゃないかなという気もする。しかしなんだろうな、多分だけれども大人の側になった今、自らの中のティーンを振り返る(これは上に書いたようにサリンジャーにとってもそうだし、そしてホールデンにとっても過去の話なのでそうなのである)ということをしているこの本を、楽しかったかどうかはまた別にしてね、大切に仕舞っておきたいような気持ちになってしまう。だからこの小説を、「若い頃の”はしか”みたいなもの」だとか、あまつさえ「中二病」なんて言葉で語ろうとする大人たちに対しては、いやぁそりゃないんじゃないかなんて、ちょっと思ったりもするわけだよ。

アニメ

水星22、グイグイ11、大スター11、マイホーム12、転生貴族12。

マイホームヒーロー最終回。適度なガバさもあり頭脳戦もあり、そして常に緊張感漂う作風でまったくもって見ていて退屈しなかった。結局のところ3人? キルして、「きっと大丈夫だろう」とニヤける鉄男の不気味さは、当然あっけらかんとしたハッピーエンドにするわけにはいかないでしょうというオチ。面白かったです。

転生貴族最終回。ギャグアニメとしてはとにかく傑作。最終回でもいちいち全員に同じリアクション取らせるところとか、どうすればギャグが成立するのかということをよくわかっている。反面、シナリオの起伏はギャグと同様のハイスピードな展開で犠牲になった情緒は少なからずあると思うし、萌にしても完全にニコイチだったシルクとテレスの印象の薄さとか、もっとやれたんじゃないかという気持ちがあるのは正直なところだ。いやお姉ちゃんの出番が少なかったから拗ねてるわけじゃないよ。ほんとに。俺はお姉ちゃんのアクリルスタンド買ったけどね。うん。最後に1クール分ぐらいあるんじゃないのって話を爆速で片付けていくの、う~ん、やりすぎ。

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