
自由とは何だろう?
自由とは何だろう?と、私はよく考えるのですが
例えば…
無限に時間があって
無限の体力があって
無限の知性があって
無限の財力があって
無限の権力があって
それが自由なのか?
スポーツにルールという縛りが無かったら、果たして楽しいでしょうか?
自分がルールを決める権力を持ち、自分が勝つまで終わらないルールにして、勝ちの決め方さえ都合良く変えられたら…果たして楽しいのか?
私の意見はNO!
ネタバレの如く、先がわかる安心感も理解出来るけど…
結末に至る筋が全て見えたら、そんな本は読みたくないし、そんな映画は観なくて良いはず
何処かに未知の不確定要素があるから楽しいので、その不確定要素を楽しむ為に、ルールがあると想うのです
この世はマトリックスで、仮想空間・仮想現実と言われますよね?
この世界の実像は自由だから…思考の縛りを解除すべし!というのもわかるけど
Aさんと、Bさんの自由がぶつかり合ったら「自由の拮抗状態…」
それが正義対正義の現実だったりします
この世が仮想世界でも…
仮想という世界での現実に変わりなくて
噛み合うパズルのピース🧩と
噛み合わないピース🧩があるなら、当然ぶつかり合いも起きるはず
違うパズルを作りたい人と出会わなければ、ぶつかり合いもありませんが…
混沌(カオス)と調和(ハーモニー)は表裏一体の世界
出会いは縁や運に導かれるもの…
噛み合うピース🧩と出会う為に、自分のパズルの完成形を表現することで
同じパズルを目指す人と(つまり価値観の合う人と)出会い、パズルを完成させることが出来るのです
そして次なるパズルを目指す時、また違う仲間との出会いがあったりしますね
自由には種類があって…
会うべき人と、会うべきタイミングで出会うことが、自分の自由を行使出来る方法なのです
前提条件があったら自由ではないのでは?という意見があるかもしれませんが…
私はそうは想いません!
自由は「無」とは違うから
自由という概念は…何かに対しての自由であって
対象がなければ自由という概念も有り得ないもの
自由の由は、無に対する「有」ともいえるでしょう!
仏教哲学(法華経)では
宇宙は「無量無辺」「無始無終」という様に、無限大に大きく…始まりも終わりも無い世界と解きます
無限ということですね
つまり無限に自由なわけですが、その無限の自由を発揮する為に…
今の時代に
今の場所に
今の自分で
生まれてきたのです
ワタシという存在は、現実にある(在る・有る)のだから
何だかパラドックスですね🙃
以前、ダンスに関するブログで何度も書きましたが…
私は身長が小さいからこそ、大きく踊ろうとしてきました
すると大きな踊りとは?を考えるわけです
極小から最大…繊細さやダイナミックさ、緩急のコントラストなどはもちろん
空気を動かす様な動きの表現をしなくてはなりません
空間に於いて大きく表現するには、何より意識の大きさが必要不可欠
では意識の大きさとは?
…と突き詰めると
小さな自分を克服する為、大きく動く練習をしてきた上で…
小さな自分ということへの精神的なこだわり=執着を無くすことに至るのです
そこに来て、はじめて大きな踊りが出来ると言えるでしょう
小さい…という意識は自分を鍛えてくれるけれど
小さいという執着が、小ささの原因でもあるから
それを捨てること、卒業することが必要なんですね
これが「解脱」じゃないか…と考えています
日本では身長が高い人も、ドイツやオランダでは平均的だったりしますよね?
ドイツ人やオランダ人のめちゃくちゃ大きな人から見たら…
日本人の大きめと小さめなど、同じ様にしか感じないでしょう
そしてカラダが大きな人のココロが大きいとは言えず…
カラダの大きさがコンプレックスで、ココロが縮まっている人もたくさんいます
相対的思考は自分の立ち位置の理解となりつつ、縛りを生む原因にもなるのです
私は自分という存在を表現する為、身長という相対的小ささと向き合いながら訓練しまくった先に…
絶対性の世界には、大きい小さいが存在しない!という境地に辿り着きました
だから年齢も…単なる数字なのだ!と言いきれます
身長も数字、体重も数字、年齢も数字…
数字は物理的世界の目安でしかありません
人は可視化出来る相対世界の数字に、思考を縛られてしまうけれど
感動は数値化出来ないもの
美味しい!とか
楽しい!などは
数字に表せないのが本当のところ
それを「星○つ」とか表せば、自分で決められない人が安心するというだけのこと…
私が疎い経済の世界では
「不安マーケティング」
とか
「恐怖マーケティング」
なるコトバも存在していて
安心だと、人は消費行動に走らないのだとか…
音楽の話しに移りますが…
昔の音階は「純正律」で、簡単に言うと音によって整う世界
ところが100年前に「12平均律」という微妙に音がズレた響きのある世界に、音のルールを変えられたのです
それが人を不安にさせて、消費行動に繋げる為、誰かが作ったルールなんだとか
その誰か…が自由を行使したのですね







🔽一応、YouTubeもご覧ください(都市伝説なので、学者の意見ではありません!)
こうした音というエネルギーはカタチは無いけれど、確実に質量ある存在で、私達の心身に影響を与えるもの…
そしてこの音を利用して、人々を洗脳した経済的(政治的)支配層がいるなら?
音によって覚醒し、自由を得ることも可能なはずです
昔好きだった音楽を聴いて、過去の記憶が鮮明に甦る時…ココロは時を超えています
音というものは常に宇宙に満ちているもの
人間の聴覚で聴き取れない音も無限にあって、植物ですらそうした音を感じており…
私達も実は、皮膚感覚で音を聴いているのだとか
私は踊りを通じて音の世界で、向こう側を意識してきました
即興で踊り、振付する時など…アタマは空っぽ状態
思考をオフにして、音に身を任せ委ねることで…動きが湧き出ます
クリエイティブな仕事をする人は、皆そうじゃないかな?
タイプによって「湧き出る感覚」「降りてくる感覚」があると想うけど…
心身を空にして宇宙と繋がるからこそ、踊りが湧き出るのです
踊りにおいて私は、アカシックレコードを信じていますから

音と同じく…人のカラダを水も循環していて、それは地球の循環とも繋がっていますよね?
水が記憶を持つという説を信じるなら、過去世の記憶なども納得出来るし…
水も音も周波…つまり波動の世界なので、音の世界にとても似ています
音は消えて空気に溶けるし…
水も蒸気で空気に溶けるから
目に見えなくなっても、存在しているもの
水も空気に溶けて曇になり、雨となり、生き物を潤し…
循環のサイクルを流れていますね
波の如く動く…つまり波動そのもの
この仮想世界という現実も、波の様に動き循環しているはずで…そのルールを理解することが、自由への扉なのかも
ダンスには即興もあれば振付もあり
即興でしが踊れないのも
振付でしか踊れないのも
本物ではありません!
振付を即興の如く踊れてこそ
即興で本当の自由を踊れます
私にとっては踊りこそが、自由な世界へ至る道
踊りとは相対的世界観の文化ではなく…
勝敗などを超えた、真理に至る道筋といえます!