チョコ猫を抱きしめて
1
思えば僕は、どうしてチョコ猫と一緒に歩いているんだろう?
ふいに、ヒビカはそう思った。こんな不思議を受け入れている自分も不思議だ。
チョコレートの猫は、まるでアニメーションの猫のようにノッペリとしている、目の青い猫だった。パッと見るだけでは、ただの黒猫にも見える。けれど猫からは、甘い匂いが絶えず香っていて、それはやっぱりただの猫ではない。
チョコ猫は、しなやかに首をひねって、ヒビカを見上げる。
そしてヒビカに、こう尋ねた。
「何を考えているんだい?」
「いや、考えてるというか…、この不思議な出来事をもう一度思い出してるんだ、はじめから」……
…はじめから、思い出す。
その頃、神永ヒビカは、いよいよ居場所を失くした少年だった。
ヒビカは、学校で美術の先生をしている母を持ち、彼もまた、絵の才能があった。そうして幼い頃から、絵を描いては親に褒められ、その道へ進むことを期待されていた。
ヒビカの方も、画家か、漫画家か、アニメーターか、とにかく、絵を描く将来を、よく夢に見た。
そんな少年が、同級生とアニメの話をすると、こうなる。
まず同級らは、仲良くなるきっかけに、好きなキャラクターや話の内容について語る。
対してヒビカは、
「背景美術がひどかったなぁ。描いた人が、自然を知らない都会の人なんだろうなって思った」
などと言う。
すると、周りはポカンとする。
それからヒビカは、特にイジメられたりしたわけではなかったが、けれど、新学期からしばらく経ち、なんとなく居心地が悪くなって、彼の方からひとりになった。
それもそのはずかもしれない。
中学一年生の男子が、ゴッホだとかムンクだとか、そんなことで頭がいっぱいになることは、なかなかない。
そうして彼の居場所は、「絵の中」ということになっていた。
そんなある時、美術の授業で、好きな風景を描くことになった。
当然ヒビカは、45分の授業の中でも、自分に印象されている田園の風景を力いっぱい描いた。
けれど絵は、未完に終わった。力いっぱい描こうとしただけに、未完に終わってしまった。手を抜けば、完成させられたかもしれない。けれど、それはできない。
ヒビカは、授業の時間が短いの憎んだ。そして、美術の先生を憎んだ。
ヒビカは、家に帰ったら、
「美術の先生のくせに、絵を描くのに時間を取らなかった」
と、母親にグチろうと思った。
「それはひどいね。私だったら三週間ぐらいかけてやらせてあげるわー」
そう母が言うのが、ヒビカには想われる。
きっと言う。それを確認するためにも、帰ったら必ず話そう。
ヒビカはそう思いながら、自分の絵を提出するために、先生の前に立った。
そのときだった。
ヒビカは、先生の机の上にある一つの絵に目がいった。
そこには、暗くて陰うつな、けれどきれいな庭の絵が描かれていた。
ヒビカはそれに惹かれた。
完成された絵だった。それは、描き終えているという意味ではなく、「自分の描き方」が確立されているという意味において、完成されていた。
ヒビカは、先生の絵だと思って、
「これは…」
と、訊くと、先生は、
「別のクラスの子の絵だね。一番すごいと思ってね」
と言った。
「…」
ヒビカは、あぜんとしてしまった。自分の絵を提出するのが、とたんに恥ずかしくなった。けれどそこに、ぽつねんとしているわけにもいかない。
ゆっくりと自分の絵を先生に手渡す。見られたくないものを見せるように。
「おお! 神永くんもずいぶん上手いね! …完成はできなかったの?」
「はい…」
「完成はできなかったの?」と、先生がきいたのはきっと、授業内に描き終えることはできなかったのか、という意味だっただろう。
けれどヒビカには、「自分の描き方がない」ことを指摘されたように思われた。
そうだ、僕は、有名な絵画の真似事しかしていない。この絵だって、モネの真似だ。でも別のクラスの子の絵は違うように思う。僕とは違う。風景が、自分にとってどう見えているのかを、自分の力でちゃんと表現できている…。
そのあとも先生は、ヒビカの絵を褒めた。けれど、褒められている人というよりは、まるで怒られている人のように、ヒビカは、うついてそれを聞いていた。
2
…ヒビカはその日の帰り道、ぼうっとしていた。それは、赤信号を渡ってしまいそうなほど、危なかった。それほどに彼は、失意の中にいた。
心にヒビが入るのを感じていた。そして心のヒビは、骨のヒビの様に、歩くたびに痛んだ。
家に帰ると、母親が、
「今日の美術の授業は、絵を描かせてもらえたんでしょう? 何を描いたの?」
と、きいた。
「…」
ヒビカは黙ってしまった。
「どうしたの?」
けれど、親を心配させるわけにもいかず、ヒビカは、
「いや…なんか、田んぼの絵」
と言った。
田んぼの絵。
ヒビカは言いながら、ひどく恥ずかしい思いをした。言いながら、それだけで、稚拙な気がした。
それからヒビカは、絵が描けなくなってしまった。いや、机に、画用紙に、向き合おうとさえしなかった。
ただ絵の描けないのは、学校に居場所がないことより、辛かった。
もう、どこにも居場所がない気がした。親から期待されることも辛くなった。
むしろ今まで、一度も自分の才能を疑わずにきたのを、バカだと思った。夢の将来は、すべて白紙になった気がした。
ただ同時に、期待されるほどの自分じゃない、と、自分に思うことほど、辛いこともなかった。
…そうしてヒビカは、抜け殻のように日々を過ごした。
強い風が吹けば、自分はそれで吹っ飛んぶんじゃないか、とまで考え出すほどだった。
ヒビカは、ある休みの日、自分の部屋の窓を開けて、網戸にした。
二階の部屋から、初夏の風景が広がっているのを、見下ろす。
「風が吹けば…」
そう思いながら、細かい網の目から外を眺めていた。ヒビカの頭には、空気の抜けた風船のイメージがあった。もうどこかへ吹っ飛ばされてしまいたい…。
すると、願い通り、強風が突然に吹いた。
風は、幽霊のうめき声のような音を立てて、窓からヒビカを襲った。
けれどヒビカは当然、吹っ飛びはしなかった。すると途端に、体が重く感じられた。ヒビカはそれだけで、本気でがっかりした。
「僕はこれから、どんな大人になるんだろう…」
そんな不安が、押し寄せてくる。
風で膨らんだカーテンが、ヒビカを飲み込むように、戻ってくる。
ヒビカは窓を閉め、カーテンから出た。
「キミが、ヒビカかな?」
突然、部屋の中で、見知らぬ老人の声がした。
ヒビカは、あわててその方を見た。
そこには、黒いローブに身を包んだ、老翁がいた。頭の上には、黒いとんがり帽子をかぶっていた。
「え!?」
「ここに、ロウソクがある」
老人は、ヒビカを無視して話し始めた。
「いや、…え?」
家に親はいない。
警察を呼ぶべきだろうが、彼にバレずに電話するには…などと、ヒビカは心拍数を上げながら、必死に考えていた。
老人は、提灯の中のロウソクを見せ、話を続ける。
「これは『闇のロウソク』だ。火をつければ、キミは蝋の溶けるまで、その存在を消すことができる」
なにを言っているんだろうか?
老人は、妙に優しい声で語る。それはヒビカのこれまでを労わるように。
「今のキミにちょうどいいだろう。火をつけなさい。それでキミは、キミの望む時まで姿を消せる。その間は、キミじゃないキミが、キミの代わりをしてくれるはずさ。みんな、そういう時があるものさ」
そこまで老人が言ったとき、閉めたはずの窓が開いていて、そこから風が吹き込んできた。
驚いてヒビカは、窓を見る。
そうして、もう一度視線を戻すと、そこにはもう、老人はいなかった。
ただ、部屋の床に、提灯とロウソクだけが、残っていた。
3
…その日、ヒビカは上の空に過ごした。
夜ご飯を食べた気がするし、風呂に入った気がする。
そんな風にして、今、ベッドの上に横になっていた。初夏にしては、妙に寒い夜だった。
部屋の机の上には提灯とロウソクがある。どうやらそれらは、親には見えていないようだった。触れることさえできなかった。そのため、今日の出来事は、全く信じてもらえなかった。
ヒビカは毛布にもぐり、その暗闇を見ながらあれこれ考える。
考えていると、
「火をつけなさい」
と、あの声が聴こえる。
幻聴…?
自分であの声を思い出しているか、それとも本当に耳に聴こえてきているのか。
幻聴は、遠くで、けれど、耳元で、聞かれるように感じた。
「きっと、キミに必要な時間だ」
必要な時間。それはそうかもしれない…。老人の諭されるような口調に、ヒビカはすでに心を許して始めていた。
毛布の中の暗闇はどこまでも続いているように思われた。その終わりを見ようと、ヒビカは余計に目を開いてみた。もちろん、手を伸ばせばそれは、ただの毛布でしかないはずだった。
なのにヒビカには、深い洞窟のように見えた。そうして夢うつつになってくる。布団に接している体の感覚が消えてゆく。自分が立っているのか、横になっているのか、それさえわからない。
洞窟の奥から、老人がやってきた。
ヒビカはもはや、驚きもしなかった。
「一つ言い忘れていた。ロウソクはいずれ消える。それまでの間、キミは姿を消せるわけだか、ただ…、気をつけるべきことがある。闇の世界とは、自らの想像が影響しやすい世界だ。それを忘れてはならん。いいね?」
そこまできいて、ヒビカは、あわてて毛布から出た。溺れた人が、水面から顔を出すように。
体はひどい汗をかいている。
「…」
いやいや! あんなじいさんの言葉を信じていいのか? 騙されていたとしたら…
…ヒビカはそれから先のことを覚えていない。
ただ目覚めると、もう月曜日の朝だった。
起き上がって、机の方を振り返ると、やっぱりロウソクはあった。
静かに、誰かが火をつけるのを待っているようだった。
4
教室に入ると、熱心に勉強しているクラスメイトが数人いるのに目がついた。
そこでヒビカは、テストが近いことを思い出した。
ヒビカの成績は、良くも悪くもなかった。彼には勉強よりも、絵を描いている方が楽しく、集中もできた。
けれど勉強は必ず未来に繋がる行為である。
対して僕のしてきたことは、本当に未来につながっているのだろうか?
ヒビカはまた、ひどい不安に襲われた。絵を描くことよりも、勉強することに時間を使っていた方が、ずっとよかったのではないか。
そんな、今までの自分を否定する自分が脳にうまれた。
「火をつけなさい」
直接耳に聞こえるはずの環境音を踏みつけて、幻聴が耳に貼り付く。
「闇のロウソクに、火をつけなさい」
その方がいいかもしれない。ヒビカは、口の中で、そう独りごちた。
家に帰ってくると、ヒビカはさっそくロウソクの前に立った。ライターを右手に持って。
老人の言うことを信じるなら、それなりの時間、自分は姿を消せる。その間は学校を休める。すれば、じっくり考えることができる。
自分に描けるものは、なにか、を。
そのための時間にしよう。
とまで、ヒビカは思ったが、けれどやっぱり、老人を信用していいのだろうか。このまま神隠しにでもあわないだろうか。という疑念が、ヒビカに根強く残っていた。
そうしてヒビカは、じっとロウソクを見つめたまま、数分経った。
すると、ロウソクから、煙が立ち始めた。
「え!? え、え!?」
そして、
バァ!
と、音を立てて、ロウソクにはなぜか、火がついてしまった。それは、熱くも明るくもない、しずかな火だった。
けれどロウソクには、確かに火がついた。火はついたが、ヒビカの体には、なんの変化も見られなかった。いつも通りのように感じる。
本当に、姿が消えているのだろうか。
ためしにヒビカは、机に触れてみた。すると手は、机をすり抜けた。
「え…」
本当だった。僕は、幽霊のようになってしまった。
想像通りと言えば想像通りではあったが、それでもやっぱり、ヒビカは自分の状況に、驚いていた。
するとそこへ、家の玄関のドアが開く音が聞こえた。
母親が帰ってきたのだった。
ヒビカは、ドキドキしながら、少し、恐怖心もありながら、母と向かい合った。
「ただいま」
と、母はヒビカに言った。
「え?」
ヒビカは、驚いた。
けれど母親は、「今日? 今日はお刺身にするつもりだよ」
と、誰かと会話を始めた。それは、ヒビカに向かって言っているようだった。
「キミじゃないキミが、キミの代わりをしてくれるはずさ」
ヒビカは、老人の言葉を思い出した。
そうか、今ここには、僕じゃないボクが居て、そのボクと母は会話をしているのか。
ヒビカは試しに、
「ねえ、お母さん!」
と、大きな声を出してみた。母は無視した。いや、無視というよりむしろ、「聞こえていない」のだろう。
「やっぱり…」と、ヒビカは独りごちたが、それも母には、聞こえていないようだった。
母はそのあとも、ヒビカに見えないヒビカと、会話をしているようだった。
それは最近のヒビカと会話するより、楽しそうだった。
そして母は、
「よかった、元気になってくれて」
と、言った。
!
ヒビカは驚いた。
そっか…、僕は、お母さんを心配させていたんだ。と、気がついたのだった。
そして、
「ごめん、お母さん。まだ本当には元気じゃないんだ…」
と、言った。それもやっぱり、母には聞こえない。ヒビカは、それが母に聞こえないことに、安心していたような、本当は聞いてほしいような、矛盾した気持ちになった。
ただヒビカは、母親の笑顔を見て、安心していた。
よかった。今の本当の僕じゃ、きっと笑顔にさせられない…。そう思うと、ヒビカは、いよいよこの状況を受け入れる他ないような気がした。
そうしてヒビカは、
「ちょっと待ってて。お母さん」
と、きこえない声でも、わざわざ口にしてつぶやいた。
5
それからヒビカは、家にいたり、外を散歩したり、ロウソクの時間を、好きに過ごした。
どうやら体は、本当に幽霊で、腹は減らない、そのため便所に用もない。
けれど体が幽霊であると、ペンを持つことも叶わなかった。もし描きたいものがあるならば、ロウソクの火を消さなければならない。
ただそうすればどうなるのだろう。ヒビカにはそれがわからなかった。もしかすれば永遠に、この時間が奪われてしまうかもしれない。ヒビカは、勝手にロウソクに火がついたとは言え、この状況を受け入れていた。
ヒビカには、親に向き合うにも、画用紙に向き合うにも、もう少しこの時間が必要だった。彼はそう感じていた。
ただ一方で、ペンを持って、白紙に落書きしているうちに描きたいことが思いつくこともある。そういう場合が、ヒビカには時々あった。その意味で体をもう一度、手にしたい考えが起こることがあった。
「まあ、ホントに描きたくなるか、わからないし…いいや」
そう思って、ただ絵になる風景を探しに散歩だけをよくした。
ただ、すでに「暇」を感じつつあった。
『闇のロウソク』に火がついてから、二日目のことだった。
ヒビカは、幼い頃、よく友達と遊んだ廃墟のドームまで散歩した。
それが絵になると思ったからだった。そして実際来ると、古ぼけた青いドームは、思ったりより小さかったが、美しいものとして、受け入れられそうだと感じた。
ドームの目の前までくると、妙な好奇心が、ヒビカに働いた。
「中はどうなってるんだろう」
ヒビカは姿を消してからというもの、こんな独り言を、知らずのうちによくするようになった。
ドームには扉がある。ツルが絡まっているが、ヒビカはそれを無理やり開けた。
ドームの中は、変に綺麗だった。何のためのドームだったのかわからない、ただ、真ん中に木が一つ、不気味に植えられていた。
ドームは青いガラスで囲われていて、そこから日がさして、中は明るく綺麗だった。
こうしてみると、中の方が、絵になるかもしれない。ヒビカはそう思いながら、木の目の前まで来た。
不思議な木だった。打ち上がった花火のように、枝が垂れていて、そこに、リンゴのような、ブドウのような、あらゆる実がなっていた。とてもこの世のものとは思われない。
その木に成る実の見た目は、まるで、星だった。
ヒビカは心のうちで、「星の木」と名付けた。
ふと、ヒビカはここで老人の言葉を思い出した。
「闇の世界とは、自らの想像が影響しやすい世界だ」
と、言っていたあの忠告。
この木は…、いや、もしかすると、このドームさえも、自分の想像かもしれない。こんなドームも、本当はとうになくなっていて…
夢でも見ているのかもしれない。ただ、絵になるのなら、なんだって構わない、ヒビカはそう思って、この世界を眺めていた。
ヒビカは星の木に成っている、青い星を見ていた。それは、あまりに美しく、今は触れられない体なのに、ヒビカは思わず手を伸ばした。
けれど星に、手が届いた。
「え?」
星は、触れることができた。
すると星は、ヒビカの触れるのと同時に、強い光を放った。あまりのまぶしさに、ヒビカは思わず、目を閉じる。
そして、ゆっくりと目を開けた。まるで催眠術を解くように。
目を開くといつの間にか、ヒビカは知らない道端にいた。そこはさっきまでのドームでもなければ、ドーム近くの道というわけでもなかった。
ただ、光にも似た、白い道が宇宙に浮かんでいて、その上にヒビカは居るのだった。
これもまた、自分の想像の世界だろうか?
…道の先には、地球にしか見えない、星が一つあった。道と星、それだけの世界だった。
6
星の手前には、誰かがいる。その人は四角い台の上に立って、指揮者の動きをしている。
ヒビカはそこまで歩く。白色の道を。
「あの…」
「ん? キミは誰だね」
指揮者の老人は、台からおりて、指揮をやめた。老人は、ヒビカに驚く様子もない。
「神永ヒビカと言います。あなたは?」
「エニー。ここで星の指揮者をしている」
エニーは禿頭で、アゴからは長いヒゲが伸びていた。エニーもまた、「闇のロウソク」を渡した老人同様、ローブを着ていた。
「あの星は、地球ですか?」
「私にはわからない。ただ指揮をしているだけだ」
「星は、あなたの指揮のとおりになるんですか?」
「いや、星は、楽譜通りに鳴っている。星は今、静かだ」
「…」
「キミはなぜここに来た」
「…」
ヒビカが返答に困っていると、
「そのロウソクで来たのか?」
と、エニーが言う。
するとなぜか、ヒビカの右手には提灯が握られていて、そこにはロウソクが灯っている。
「あれ? なんで…」
もちろんヒビカは、ここまでロウソクを持ってなどいなかった。
「その火を消しなさい。すれば、キミは元の世界へ帰れるはずだ」
ヒビカはまた、黙ってしまった。確かに消した方がいいのかもしれない。それで、テストのための勉強でもした方がいいかもしれない。そんなことを思う。
けれど、消せない。ロウソクなんだ、どうせいずれ消える。闇のロウソクを見ると、確かに溶け始めていた。
それならまだ、この時間を終わらせたくない。いつまで続くかわからないこの時間を、けれどまだ、終わらせたくない。
それは、怠惰のような、熱意のような、そうしたあらゆる感情が、ヒビカをそうさせていた。
「早く、消しなさい!」
エニーは突然、怒鳴るように、大きな声を出した。ヒビカは思わず、ビクッとした。そうして、ヒビカは、声を震わせながら、
「…、どうして、そんな…、僕の火を消させようとするのですか?」
この老人は…、エニーは、どこまで僕のことを知っているのだろうか?
エニーは、今度は、やさしく目の前の少年に語った。
「それが危険なものだからだ。キミにはまだ症状が出ていないようだが、その火が続くと、そのうちにキミの体はだるくなり、精神は壊れ、世界を、人間を、呪うことになるかもしれないんだ」
「…」
「世界を呪うことは…自分を嫌うことになる。いや、あるいは、自分を嫌うから、世界を呪うのかもしれん。とにかく、危険なものだ」
そんな副作用が、このロウソクにあるのだろうか? いや、でも、たしかに…。
「うすうすわかっているようだね。なら、さあ、消しなさい」
「でも…、『誰にでもこういう時があるもの』ではないんですか?」
ヒビカは、ロウソクをもらった老人から聞いた言葉を思い出して、それを引用するように言った。
「…」
今度は、エニーが黙った。
「それにこれは、ロウソクです。いずれ消えるものなんでしょう? あと…、火が灯ってます。だから何だって話かもしれませんが、でも、きれいな火です。勇気がでます。僕は…、この時間をボクと向き合うために使うつもりなんです!」
「…。んー。そうか…、まあ、キミのことだ、キミが決めるべきなんだろう。ただ、アドバイスではないが、キミは『星の木』からここへ来たようだが、あの木には、他にも星があったろう?」
「あれ本当に『星の木』って言うんだ」と、ヒビカは思いながら、返答に「はい」とだけ言った。
「ならすべての星に触れて、星々を旅するといい。すればさっき言ったような症状から逃れられるかもしれん」
「…そうなんですか。…ありがとうございます。そうしてみます」
ヒビカはそう答えながら、エニーに僕は試されていたんじゃないか、と考えた。
エニーの顔をみる。この人が神様だと言われたら、納得するような気がした。僕のことを見通していたのかもしれない。
「さて、指揮をしなければ」
そう言ってエニーはまた、台の上に立った。
「ああ、そうだ。キミはあの扉から、帰ることができる」
エニーは振り返って、星とは反対の方向を指揮の棒で指し、扉があるのを示した。
「ありがとうございました」
ヒビカは礼を言って、その扉まで歩いた。
その扉を開くと、どういうわけかそこは、ドームの入り口になっていた。
7
また、星の木の下へくる。
扉をくぐると同時に、ヒビカに握られていた提灯は姿を消した。
ただ、それでもヒビカはなんとも思わなかった。「どうせ消えるものだから」と考えていたためだった。そしてそれは実際、そうだった。ロウソクは、刻々と、静かに、溶けていた。
星の木に成っている星は、エニーのいる星を含めて、四つだけだった。
あと三つの星を旅しよう。
そうしてヒビカはまず、エニーの星のとなりにあった、緑色した星に触れた。
すると、やっぱり強い光に包まれた。そうして目を開くと、その星の中にいるのだった。
そこは夕暮れの森だった。星に来ると、ヒビカの上半身は、幽霊ではなく、実体として、はっきりした。肩に重力ののしかかるのさえ、感じた。まるで、地球に帰還した宇宙飛行士のようだった。
試しに、近くの木に手を伸ばす。触れることができた。
ああ、体だ。ヒビカはそう思った。
何かに接すること、触れることは、人間にとって当たり前のことであり過ぎるため、ヒビカには、それがたったの二日ぶりであろうと、あまりにも懐かしく感じられた。ただ一方で、下半身は幽霊のままだった。半分生きていて、半分は生きていない。
それでも夕暮れの木漏れ日の、日の温かさも、久しぶりで、ヒビカはうれしくなった。
そうして、この感じを絵にしたらどうだろうと思った。ヒビカはそう思いながら、木に触れていると、どこからか、子供たちの声が聴こえてきた。おそらく自分より、とっても幼い子供の声だ。
ヒビカはあたりを見渡した。けれど、どこにも子供たちの姿は見えなかった。ただ、その楽しそうな声だけが、聞こえてくる。
そう言えばこの星には、エニーのような人はいないのか、と、ヒビカは不安になってきた。
すると暗い森の中から、一匹の黒猫がテクテク歩いてきた。
ヒビカと猫とは、目があった。猫はよくみると、茶色い色をしていた。それはまるで、チョコレートのような色だった。
「キミがヒビカ?」
「え?」
猫がしゃべった…。まるで映画の世界みたい。
「話せるの? てか、どうして僕の名前を…」
「そりゃ、ずっと前から知ってるよ」
ずっと前から?
「ついてきて!」
猫は歩き始めた。ヒビカは混乱しながら、ついてゆく。
歩きながら、ヒビカは話す。
「キミは、毛のない…なんというか、」
と、ヒビカが言い切らないうちに、
「チョコレートで出来た猫なんだよ。みんな『チョコ猫』って呼ぶ」
「チョコ猫…、どうりで、イイ匂いがするんだね」
「…、食べないでよ」
「食べれるの?」
「教えない。てか、食べれたら食うつもりなの?」
「いやさすがに、そんなことはしないけど…、興味本位だよ」
「なんか、信用できないかも」
「え! いやいや! 信じてよ。食べない食べない!」
「ボク…おいしよ?」
「え?」
「あ! 今うれしそうな顔した!」
「してないって!」
「した! した!」
「してません!」
「ふふふ」
チョコ猫は青い目を細めて笑った。ヒビカも思わず笑った。
「…ねえ、どうして僕のことを知っていたの?」
ヒビカはさすがに、訊かずにいられなかった。
「…」
チョコ猫は黙っていた。
「ねえ、無視しないでよ」
「…キミが忘れたんだよ」
と、チョコ猫はいじけたように、小さく言った。
「え?」
けれどヒビカにそれは、聞こえなかった。
「リリィって人に教えてもらったんだ」
チョコ猫は呆れたようにヒビカに教えた。
「リリィ? そんな人僕は知らないよ?」
「いいや、知ってるよ。キミに闇のロウソクを渡した人だもん」
あの老人…?
「あの人、リリィっていうんだ」
「そう。さあ、もうちょっと歩くよ」
そうしてヒビカは、チョコ猫の案内する方へ、続いた。
歩きながらヒビカは、いろいろのことを考えていた。
目の前でチョコ猫は、短い歩幅でテクテク歩いている。尻尾が時々、左右に動く。
不思議な猫だ。絵にしたら、かわいいだろうな。
ただ、なんなんだろう、この世界は。「絵になれば」と、つかつかどこまでも来たけれど…。まず本当に僕の想像の世界だろうか。いや、違う。ぜったい違う。
考えれば考えるほど不思議だ。ただ、世界はある。森を見渡す。隅々まで森だ。そこまで歩けばきっと、またその先に世界は広がっているに違いない。
思えば僕は、どうしてチョコ猫と一緒に歩くことになったんだろうか。
もう一度思い出そう。ヒビカはそう思っていた。
「何を考えているんだい?」
するとチョコ猫が、そんなヒビカの様子を見て、尋ねた。
「いや…考えてるというか、この不思議な出来事を思い出してるんだ、はじめから」
「ふーん。そう」
ヒビカは歩きながら、これまでの一つ一つを思い出し、終局的にはやっぱり、「絵を描く人を目指すか、それとも潔く、もう諦めるか…」と、悩むのだった。
チョコ猫についてゆくと、そこには、ドームがあった。ヒビカには、見覚えのあるドームだった。
「このドームって…」
「キミはここから帰れる」
やっぱり…。
「ヒビカは帰った方がいい。帰ってロウソクを消すの」
エニーと一緒だ。
ヒビカはそう思って、「また」という多少のものうさを感じた。僕はまだ、決めかねている人間だ。
「わかってる。どうしてキミがそう言うのかは。でも帰らない。この星も含めて、星々を旅するつもりなんだ。僕はもう少し、この時間の中にいたい」
「それがどういうことか、わかってるの?」
「うん。なんとなくは。それに、エニーって人が教えてくれたんだけど、この星々を旅すれば、大事には至らないんでしょう?」
「ちょっと違う。旅をして、キミはキミの闇から抜け出さなければならない。闇は、火の続く限り、やっぱりキミに絡みつこうとするんだ」
「…」
エニーも「闇から逃げられるかとしれん」というようにしか、言っていなかった。
「やっぱりキミは、帰ってロウソクを消した方がいい」
ヒビカは「イヤだ!」と、言いかけた。言いかけて、その言葉が、駄々をこねる子供のようだと思った。
現実世界にあっても、「絵描きになるか、ならないか」を考えることはできるかもしれない。できるはず。いや…、どうだろう。
現時点で、ヒビカにとって「世の中」は、「勉強をしなければならない世界」だった。勉強のできる、できない、が学生の重要なアイデンティティだった。もちろん実際には、「音楽好き」「本好き」…、さまざまあるだろう。ヒビカもそれをわかっている。
が、「絵を好き」で、かつ、「絵で自己を表現したい」と考えているのは、ヒビカのみだった。そんな中で、ヒビカに友達はできない。ヒビカは変に真面目なところがあった。
ただ、そうであるならば、ロウソクの時間に居た方が、彼には有意義だった。
必要な時間。
ヒビカはいよいよ、「闇のロウソクの時間」に固執していた。
そうしてヒビカはまだ、黙っていた。
するとチョコ猫は、ヒビカのそんな気分を悟ったのか、
「まあ、いいよ。そんなにここに居たいなら、もうちょっと居ればいいよ。ゆっくり考えてごらん」
「…」
ヒビカはまるで、怒られた人のようだった。
8
森を抜けて、チョコ猫は、ヒビカをある城へ案内した。チョコ猫いわく、「思索するのにいい」ということだった。チョコ猫はその城に住んでいるらしい。
城の前までくる。城は立派なものだった。日本のようなものではなく、ヨーロッパにありそうなものだった。そして城の向こうには、この星との距離が近いのか、大きな三日月があった。絵に描かれたような三日月だった。
ヒビカは、城と三日月とをみた。これもまた、絵になると思った。
「ここだよ」チョコ猫は言う。
「すごい…、王様でもいるの?」
「ううん。城には子供しかいないよ。そもそもこの星には、子供と、一人の大人の魔女しかいないんだよ」
「へぇ…」
「魔女が僕らを養ってくれてる」
「なる、ほど…」
わかったような、わからないような…、とヒビカが思っていると、
「あ、ほら」
そう言ってチョコ猫は、三日月をアゴでしゃくった。「ん?」と思って、ヒビカもその方を見る。
見ると、さっきまで居なかったはずの魔女が、三日月に座っている。
「わあ」
驚くヒビカに、魔女は笑う。魔女は、「オトナの女性」という感じだった。
「ふふふ。チョコ猫ちゃん、友達を連れてきたの?」
「はい、そんなとこです」
「そう。で、誰なのですか?」
ヒビカは、あわてて、
「あ、神永ヒビカと言います」
と、大きな声でこたえた。まるで、屋上に居る人と、地上から話してるみたいだ、とヒビカは思った。けれど魔女の方は、静かに話している。それなのに、はっきり聞こえるのだった。
もしかすれば、そんなに声を張らなくてもいいのかもしれない、ヒビカはそんなことを思う。
「ヒビカさん。チョコ猫ちゃんと、仲良くしてあげてくださいね」
「はい…」
「ふふふ」
やっぱり、小さな声でも、聞こえるものらしい。
ただ、ヒビカは、三日月に座る人と話していることが、あまりにも夢のようでしかなく、こうこつと、し始めていた。
「あ、そうだ、チョコ猫ちゃん。チョコは溶け始めてはないですか?」
「ええ、まだ大丈夫そうです。が…」
「一応、魔法をかけときましょうか?」
「ええ、そうしていただけると…」
ヒビカは次は、くすくすと笑い出した。チョコ猫がさっきから、魔女には敬語で話すのが、ちょっと面白かったのだった。
「では…」
と言って、魔女は、人差し指をチョコ猫に向けた。向けるとそこから、キラキラ雪のような光線が降り出した。
チョコ猫は頭を下げて、首をさしだす。そこへ魔法の雪が降る。
うすら笑いの顔だったヒビカも、真面目な顔をして、その様を見ていた。神秘的だった。
チョコ猫の生命はこの魔法にあるのだろう。
「ありがとうございます」
そういう儀式のように、チョコ猫は魔女に礼を言った。
「ふふふ。そんなお礼なんて、言わなくていいのに」
真面目な反応のチョコ猫とは反対に、魔女は笑っていた。笑いながら魔女は、その姿を静かに消していった。ヒビカはそれにも驚いた。
が、チョコ猫にはそれが当たり前で、
「じゃあ、城に入ろっか」
と、言った。
そうして、呆気にとられていたヒビカは、目の前の城に意識を取り戻した。
9
城の中は、絢爛豪華で、天井は高く、シャンデリアがいくつか輝き、照らされる床は赤いカーペットが敷かれていた。けれど対照的に、閑散とした室内だった。室内の明るいのが、かえってその寂しさを感じさせる場所だった。
グゥ〜。
城に入ってすぐ、ヒビカのお腹が鳴った。それが城中に響いた。
上半身は、生きている。生きている体は、お腹がすく、という当然を、ヒビカは思い出す。ヒビカはここへ来て、ついに、空腹を感じ出した。
大きな腹の鳴るのを聞いた、チョコ猫は、キィ!っと、ヒビカを睨んだ。
「やっぱりボクを食べるつもりなんだ!」
「ちがうよ! なんでそうなるんだよ! ここに来てから体が…、とにかく、何も食べてないから…」
「…それでボクを食べるんだ」
「だから…」と、ヒビカが言い返そうとするのをさえぎって、
「わかってるよ。冗談だよ、じょーだん」
と、チョコ猫は笑った。
笑ったあとで突然に、
「ごはんだよー」と、大きな声を、城に響かせた。すると、城のたくさんある部屋のドアのうち、三つが開き、三人の子供が出てきた。
「これで全員。昔はもっとたくさん居たんだけどね」
と、チョコ猫は、独り言のように、ヒビカに語った。
子供たちはと言えば、みんなヒビカに興味津々だった。女の子一人、男の子二人の子供たちにヒビカは囲まれた。
「だれ?」
「オトナのひと?」
「なんで足ないの?」と、いった調子だった。ヒビカは困りながら、たくさんの質問に答えていた。そんなヒビカを笑いながら、チョコ猫は、みんなの先頭を歩き、ダイニングルームへと連れて行った。
ヒビカの一番こまった質問は、「オトナのひと?」という質問だった。ヒビカは中学生になってからというもの、カラダのあらゆる面が発達し始めていた。
「オトナではないよ」と答えつつも、「じゃあ、自分は子供なんだろうか?」とも疑問になった。
ダイニングルームへ来ると、テーブルには、オムライスが並んでいた。
それは、あの魔女が用意しておいてくれたものらしい。ヒビカの分も、ちゃんと用意されていた。
この料理も魔法によるものだろうか? ヒビカはそう思いながら、席についた。
そうして、夕食となったが、ヒビカは感動をもって、オムライスを食べた。それは魔法によるものだろうが、美味しいご飯とはそもそも、魔法がかけられているようなところがある。ヒビカはそんな「気づき」を、闇のロウソクの時間によって、得た。それがヒビカの感動だった。
ふとヒビカ、床にいるチョコ猫を見ると、チョコ猫はオムライスではなく、お米のようによそわれた、「魔法の雪」をパクパク食べていた。
それが可愛いくて、ヒビカは微笑んだ。
微笑んでいると、目の前で食べていた、「ナオ」という男の子が、口にお米をつけながら、
「ヒビカ、ヒツジみたことある!?」
と、きいた。
ヒビカは、どうしてそんなことを聞くんだろうと思いながらも、
「小さい頃、動物園でみたよ?」
と、答えた。
するとナオは、目を輝かせて、
「ホント!? じゃあ、かいて見せて!」
と、よろこんだ。ナオがそう言ったのは、さっきのたくさんの質問の中で、「絵を描くのが得意」と、ヒビカが言っていたためであろう。
「ヒツジの絵をかいて!」
ナオはもう一度言った。
けれどヒビカは、すぐには答えず、自分の体を、点検するように見た。
上半身は生きている。もう、今は、ペンを持てる。絵の描ける体ではある。
そして、
「…うん。描くよ」
と、決心するように言った。
ナオからすれば、ただ、見たことのない、けれど「もっとも毛のモフモフな生き物よ」と魔女から教えてもらった生き物を、絵でもいいから見たいだけのお願いだった。
ただそれが、ヒビカに、久しい絵を描く機会を与えたのだった。
10
夕食を終え、チョコ猫は、ヒビカを一つの部屋に案内した。子供たちは各々の部屋へと戻った。
さっきのナオとヒビカの会話を聞いていたのであろう、チョコ猫が案内したのは、絵を描くための道具が揃った部屋だった。
「ここがヒビカの部屋」
部屋の窓からは、夜の森を眺めることができた。街灯のない世界で、森は暗く、星は明るかった。
部屋の明かりは、常夜灯ほどのもので、心地よく眠たくなるような明るさだった。けれどヒビカは、しんしんとした夜に、全く眠気を感じていなかった。彼はそれを、下半身がまだ幽霊のためだと考えた。
「ボクもこの部屋に居ていい?」
と、チョコ猫は、ヒビカに尋ねる。
「もちろん。てかむしろ、僕が部屋を借りてる方だから…」
「ははは。そうだったね」
「…」
「…」
静かで暗い部屋に、沈黙が続いた。
「ボクはやっぱり、今すぐにでもロウソクを消すべきだと思う。でも…、星をめぐると言うなら、早くヒツジの絵を描いて、明日にでも、この星を出た方がいい」
チョコ猫の、青い目が、かすかに輝いている。真剣な目だった。
「…、わかった。僕、まだ眠くないから、ちょっと今からでも描いていようかな」
「そう。ボクは、おはじきしてるね」
「おはじき? 一人で?」
「うん。案外楽しいよ」
「へぇ…」
チョコ猫は、部屋の床で、おはじきを始めた。カチ、カチ、カチ…と、音が鳴り続いた。本人はそれで楽しいらしい。ヒビカは、一緒に遊ぼうか、と言おうか迷ったが、画用紙に向かった。
ヒビカは、一般に、人がテスト用紙に向かうときのように、緊張して、画用紙と対峙した。
ただヒツジを描くというだけであるのに。
けれどどうせ描くなら、自分が納得するようなものにしたい。
というのも、ヒビカの頭には、「ストレイシープ」という言葉が浮かんでいた。つまり、「迷える羊」。
迷える羊。
まさに、自分のことではないか。
ただナオを喜ばせるだけではなく、ヒビカは、ヒツジを描くことで、今の自分を表現してみたいとも思っていた。それができた時、自分にどんな変化があるのか、それを感じてみたかった。
けれど、その両立は難しい。
そこで、ささっと、ヒツジの絵を一枚描き、ナオくんにはそれを見せて、別に一枚描こう、と考えた。
そうしてヒビカは、久しぶりにペンを持った。
暗い部屋とは言え、明かりのないわけではなく、また、その明るさに、目が慣れてきてもいた。ヒビカは、画用紙を見つめる。
ヒビカはまず、大きく、リアルなヒツジを描いた。
ヒツジは、思い出しながらでも、ヒツジを上手く描けた。これならナオくんも喜んでくれるだろう。
描きながらヒビカは、久しぶりに絵を描くのを楽しんだ。楽しめた。ちゃんと楽しめる自分に、ヒビカは、安堵した。
そして改めて、「集中する時間」がやっぱり好きだと感じていた。ただ、それだけに、近くで「カチ、カチ、カチ…」と、音出して遊んでいるチョコ猫が、時々気になった。が、注意ができる立場でもないため、ただ黙っていた。
ヒビカまだ眠くならなかった。
「ねえ、チョコ猫は寝ないの?」
いつまでも、おはじきで遊んでいたチョコ猫は、その手を止めて、
「ボクはチョコだから、眠くならないんだよ」
「へぇ…」
もしかして、その間ずっと、おはじきしてるの? と、きこうか迷ってヒビカは、きかなかった。
「ヒビカこそ、もうそろそろ寝た方がいいんじゃない? ニキビできるよ?」
「ニキビ…。そうだけど、全然眠くならないんだようね。この体のせいかな?」
「眠くならない?」
突然、また真剣な顔つきになって、チョコ猫は、ヒビカに尋ねた。
「うん」
「それは…、『闇のロウソク』のせいかもしれない」
「…」
「やっぱり、ちょっとずつ症状が出てきてるんだよ」
そう言われてヒビカは、多少の恐怖を感じた。
ニキビ、不眠、闇、迷える羊…、あらゆる言葉が胸の中をただよっていた。
けれど、「ロウソクを消せ」と言われるのを察して、ヒビカは、
「今日はとりあえず、眠くなるまで絵を描くよ。そんで、チョコ猫の言う通り、明日には、別の星に行けるようにしようと思う。でもやっぱり僕は、ロウソクはまだ消さない。この世界でなら、眠れなくなるのも、そんなに苦じゃないし。寝坊したって誰が怒るわけでもないし」
と、チョコ猫が口を開くより先に言った。
「…」
チョコ猫は、黙って、ヒビカと目を合わせているだけだった。そうしてまた、おはじきを始めた。
ヒビカにはチョコ猫が、ワザとそんな態度をしたように感じられた。そこに少し、ヒビカは苛立った。口ではなく、目で説教されたような気がしていた。
部屋に案内された時とは別の、沈黙がお互いに流れていた。
ただ、カチ、カチ、カチ…と、おはじきをばら撒いては、自分だけで遊ぶチョコ猫の、おはじきの音が鳴り続けていた。
ヒビカはいよいよ集中できなくなった。また、眠気の「ね」の字もなかった。むしろ、苛立ちが止まらなかった。
チョコ猫は別に何も言っていない。星をめぐるならめぐればいいと、言ってくれている。ただもちろん、「ボクはロウソクを消した方がいいと思う」としながら。
ヒビカは、何度考えても、イライラする理由は自分になかった。ないのに、無性にイライラし始めた。
これも、「闇のロウソク」のせいだろうか?
そんなことが、思い当たる。
二枚目の画用紙は、まだ、白紙だった。
カチ、カチ、カチ…。チョコ猫は、飽きもせず、おはじきを永遠に続けていた。それはもはや、そういう仕事のようにも見えた。
そしてその音がまた、ヒビカをイライラさせた。
やがて、ヒビカは、そのイライラのままに、赤い絵の具を出し、白紙を真っ赤に染め始めた。ヒツジをどこに描くなど、頭になかった。
染めたあとで、「あっ、」と、ストレイシープの字を思い出した。
その頃、いよいよ夜明け前だった。窓から、多少の明かりが、こぼれ出した。
「ヒビカ…、もう朝になっちゃうよ」
「え!? 本当だ…」
チョコ猫はまた、ロウソクの話をするだろうか、と、窓の外を見ながらヒビカが思っていると、
「散歩しよ!」と、チョコ猫は言った。
「え?」
「もう、こんな時間まで起きてたんなら、朝日でも見なきゃ、損だよ!」
11
「この辺、よく歩くんだぁ」
「へえ」
ヒビカは、家族で初日の出を見に行ったのを思い出しながら、散歩道を歩いた。
チョコ猫の散歩道は、ある丘へと続いていた。
「とっておきの場所だから、きっと気に入るよ!」と、チョコ猫はうれしそうだった。
見ると、東の空の底は、もうオレンジの色をしていた。
きれいな空気、自然、空に囲まれ、そうして歩いていると、ヒビカの心は落ち着いていった。途端に眠気を感じ出した。
真っ赤な世界から逃れたような気がした。
そんなときだった。
「ホラ!」と、喜ぶチョコ猫の声を合図に、登り切った丘から空を見ると、そこには、美しい朝焼けが広がっていた。
「わあ」
感度するヒビカをみて、チョコ猫は「ふふふ」と笑った。
「ん?」
それに対してヒビカが疑問を顔にすると、
「やっと、いい顔をした」
と、チョコ猫は言った。
散歩から帰ってくると、ヒビカは寝てしまった。そのまま昼になるまで、起きなかった。
昼になって起きたのは、起きたというより、起こされたためだった。
ヒビカは、はっきりと覚えていないが、おそらく父親と一緒に虫取りに出かけた日の夢を見ていた。そこから覚めると、目の前には「ルカ」という城の子供の一人がいた。女の子だった。
ヒビカは、自分の見た夢の方が現実的で、今ある現実の方が、夢のように思った。
ルカは、「あそぼ!」と、ヒビカの体を叩いた。
ヒビカは、真っ赤の画用紙が気になって、そこにヒツジを描きたい欲求があったが、目の前の子供を断るに断れず、そのまま夕食まで遊ぶことになった。
ルカは、森の中へとヒビカを誘った。
彼女は「お菓子の木」があるのだと、言う。
来ると実際、お菓子が成った巨木が、森の中に、ぽつねんとあった。
ヒビカは最初こそ、「おお」と、惹かれていたが、そのうちに頭の中は、「ストレイシープ」でいっぱいになった。
「こんなところにいる場合じゃない」という気分が強くなった。が、かえってルカは、「お菓子を食べましょ!」と喜んでいた。そんな、いかにも「子供的な時間」に、付き合えないことをヒビカは自覚して、「大人でもないけど、子供でもないんだな」と考えていた。
それでルカはお構いなく、「あのお菓子をとって!」などと言って、楽しんでいた。そうしてその後も、様々な「子供的遊び」をして、夜まで過ごした。
ヒビカは、昨日と同じような時間に、また、画用紙と対峙した。
暗い部屋で見る真っ赤なその色は、自分ながら、恐ろしかった。