静寂の歌 2-1
第二章
一
事件から一週間が経った。八枯れの見つけて来た薬草のおかげで、肩の傷は、だいぶ良くなったが、骨折に関してはあと、一か月はかかると医者に言われてしまった。
仕方がないので、右腕は釣ったまま家のことや、仕事や、まあもろもろのことをやっている。不便なことこの上ないが、だいたいの瑣末なことは錦と邪植が済ませてくれるので、問題はなかった。
そうして、邪植が目覚めた夜の翌日、錦も目を覚ました。はじめ、責任を感じて死のうとしていたが、どうにか説得をして(八枯れは端からこれに加わる気がない)、今日を迎えた。反省はたしかに大事なことだが、これ以上面倒事を増やさないで欲しい、と言うのが本音だった。もちろん、口には出していない。
あと、木曜日に私塾を開講したが、つぐもは来なかった。仕方がないので、いつものメンバーでそれぞれのテーマを提出して、さまざまな角度から互いに切り込みを入れていったりした。
ちなみに、みのるは「不確定性原理について」で、純一は「芸術と生活の両立は可能か」で、さゆりは「異常性と正常性の境界を探る」で、ななこは「外国人になるとはどういうことか」だった。なかなかみんな、その辺をぶらぶら歩いている大学生よりも、考えを深めているようで、まったく切実な想いが伝わってきた。それぞれの哀切を聞いているにしたがって、あまりの心地よさに、うっとりとしたものだ。
得てして学びをやるとは、そこに渇望があるか、ないかに過ぎず、技術の練磨や、膨大な書物を読んでいるかどうかなどでは、脳の価値など判断できない。つまり、自分自身にとっての切実な問題を、論理化してゆくことが、学問をやることの本当の意義であり、力比べや、優劣を競うためや、賢そうに見せるための道具やアクセサリーでは、決して無いのだ。
それがわかっていない者に、いくらテーマを出させても、おそらく人眼を気にした平坦なものしか出てこないだろう。金をもらっている訳でもないのに、そうしたご機嫌うかがいをやる連中に、いい加減で飽き飽きしている。
「何をやっているんだ、貴様ら」
八枯れの呆れた声に、振り向くと「見てわからないのか?」と、肩をすくめて見せた。庭の中央で、ビニールプールを置いて、その中につかって、足をのばしていた。もちろん、肌寒い十一月に水浴びなどするはずもなく、中はお湯だ。
「わからんから、聞いとるんじゃ」
「温泉だよ。まったく物を知らないやつだ」
「温泉ってのは、石で囲った外風呂のことを言うんじゃ。貴様の入っているビニールのおもちゃのことじゃあない」
「湯がはってあり、外で入っているんだから、道理は同じだろう」
「そんなことだから、変人奇人と呼ばれるんだ」
「うるさいやつだな。あるものを有効に使って何が悪い」
八枯れは縁側で丸くなると、鬚をひくつかせて、ため息をついていた。僕はその姿に、舌を出して上を向いた。
小さな光の輪が、浮かんでいた。「やあ、虹じゃないか」と、嬉々とした声を上げると、ふりそそぐお湯がゆらゆらと、ゆらめいた。錦が湯のひかれているホースをくわえて、上から落としているのだ。それが朝日に照らされて、虹色にかがやいている。
「お前も入りたいか?」錦の青い双眸を見上げて、微笑を浮かべた。「少し狭いかな。いつか、もっと大きいのを買おうか」
「それよりも」
錦はやわらかな微笑をうかべて、鬚を風になびかせながら、ついと門の方へ顔を向けた。「良いんですか?もうすぐ、お客さんの来る時間なのでは?」と、言いながら、ホースをビニールプールの中につけた。僕は、プールの淵に左腕を置いて、足をかいた。
「いいさ。いまさら落ちる評判もない」
「もっと、信用を無くすぞ」八枯れは、縁側の上で丸くなったまま、にやにやしながらつぶやいた。「それに、あの小僧」
「まだ言ってるのか?」
「いい機会じゃ。ついでに素性を調べてみろ。一つか二つ、手がかりが出てくるんじゃないか。いや、手ぬかりと言っても良いか」
含みのある八枯れの言い方に、僕は眉間の皺を濃くした。錦はくるくると浮遊しながら、かすかな風を起こして、庭につもる楓や銀杏の葉を舞わせていた。僕は、湯の水面に落ちた黄色い葉をすくいながら、苦笑を浮かべた。
「これとは関係ないだろう」
「また人探しか?」八枯れはいくぶん不満そうな声を上げた。「いい加減、魔物を喰わせろ。わしは腹ぺこじゃ」
お前はいつも腹ぺこだろうが、と呆れた視線を送りながら、ため息をついた。つまんでいた銀杏の葉を指ではじく。
「ただの人探しなら、探偵に頼むだろう」
気だるくつぶやきながら、そばに置いておいた書類を手に取った。水がしみこんで、紙がふやける。少し文字が見えづらくなったが、まあ、良いだろう。そこには、依頼人の電話番号と、名前が書いてある。簡単にまとめてある依頼内容にもう一度目を通して、それを八枯れのほうに放った。
「わしはこんなもの読まんぞ」
それでも律儀に、散らばった書類を拾ってまとめている。尻尾を振りながら、「乱暴な奴だ」と、ぶつぶつ文句をつぶやいていた。
「では、食材を探してきます」
「うん」
僕が顔を上げると、錦の起こした風が前髪をかきあげた。空中をただよいながら、裏山に向かって飛び去って行く。きらきらとまぶしい白線が、紅葉している山の上にかかる。まるで、錦鯉が空を泳いでいるようだった。
「山下とも子?」
「なんだ、結局読んでいるんじゃないか」僕は苦笑を浮かべて、振り返った。「どうやら、難ありの女らしいね。けっこう美人なんだそうだ」
そんなことはどうでもいい、と八枯れは眉間に皺をよせて、「失踪」と書かれた箇所を、指して示した。
「これは何だ」
「さあね。これから、事情を聞くんだ」
「喰っていいか?」
「場合によるな」
顔をごしごしとこすりながら、立ち上がると、縁石の上に置いていたタオルを手にして、プールから出る。湯気ののぼる体を折り曲げて、タオルを腰に巻いた。それと同時に、玄関の呼び鈴を鳴らす音が、屋敷内に響き渡った。
「そら、客が来たぞ」と、言って笑うと、八枯れは眉根をよせて、鼻を鳴らした。