黴男 1-8
八
数日の間は平和に過ごしていた。坂島のアドバイス通り、虫や動植物を見ても、何も考えないようにして、人とすれ違ったり、あるいは嫌いな奴と会っても、「気にしない、気にしない」と、暗示をかけるようにして、難を逃れていた。
しかし、それだけでは当然だが、ストレスが溜まる。ストレスが溜まれば、考え方も暗くなるもので、そうなるともう駄目だった。やはり、カビは額から首にかけて広がってゆき、広がったら顔を隠しながら、うんうん言ってあの坂道を上がって行く。坂島の小言を聞きながら、黴を落とし、また同じことをくりかえす。なんとも面倒なことだ。
そこで、発想の転換を試みることにした。どうせ悪いことを考えたら、カビが生えると言うんだ。それなら、自分が得をするような「悪い」ことを、考えたほうがよっぽどマシだ。同じ「意識的に考えを変える」という作業なら、偽善者ぶるよりも、自分が得したほうが当然良いに決まっている。
坂島には悪いが、どうせ一週間に一度は、黴をはがしに行くことになっている。カビの広がりは食い止められるのだから、このマイナスの不運を、プラスの不運として楽しんでみるのも悪くない。これだって、坂島の言うところの「逆転の発想」と、言うものに違いない。
まず手始めに思いついたのは、金を増やすことだった。生え際に生きるカビを、「考えたことが本当になる能力」として考えたら、誰だって一度は思いつく悪事である。手袋をつけ、大きなカバンを持って外に出ると、街へとくり出して行った。
こんなに街に出ることを、楽しみに感じたのは久しぶりだった。カビが生えてからと言うもの、どこもかしこも危険な場所にしか見えなかった。心が休まる時のほうが少なかった。人とすれ違うたびに、額のカビが大きくなっていないかを確認して、憂鬱になっていた。それが、いまはどうだ?
「悪いことの代償だと思えば、カビくらい安いもんだ」
にやける口元を押さえて、ショッピングモール街にある、大きな銀行の前で立ち止まった。シナリオはすでに考えてあった。なんてことはない。
預かり金の輸送の合間で、警備員が銀行強盗犯に殴られて昏倒する。数人の犯人たちは、スムーズに大金の入っていた袋を持って、ワゴン車に向かって走り出す。しかし、一人あわてていた強盗犯が、野次馬としてそれを見ていた僕とぶつかり、数枚の金を落とす。金の落とし先は、転んだ拍子に道路の上で口を開けていた、僕のカバンの中だ。
そして、それは程なくうまくいった。
多少、問題があったのは、逆上した犯人に銃を向けられたってことくらいか。さすがに銃口が、こちらをとらえた時はひやひやしたが、すぐに警備員がかけつけてくれたので、助かった。犯人は車で逃走。その後のことは知らない。興味もない。
人ごみに紛れて、現場を後にした。人気のない公園のトイレに入って、カバンの中身を確認した。五万は入っていた。なんだ、案外うまくいくもんだな。にやける頬を撫でながら、ふと、指先に伝わった冷たい肌の感触に、鳥肌が立った。
「こんなに早く、広がるとは」
鏡に映った自分の顔を見て、言葉を失う。額から右頬にかけて広がった黒いカビは、蛍光灯に照らされて、さらに大きく浮き上がる。それは、肌がそげ落ち、腐食した後のような色をしていた。触ると、湿ってざらざらとした感触が、伝わってくる。ああ、相変わらず気色が悪い。だけど、とまたにやける頬をおさえて、トイレから出た。
手袋をつけたまま紙幣を取り出すと、公園のベンチで横になっていた浮浪者の腹の上に、そっとその金を落として行った。
もちろん、ネズミ小僧のつもりはない。今回は、ただの実験だからだ。
本当に金品を物にするためには、番号のひかえなどされていない金や、実際の物品を狙ったほうが良い。それも、僕が介入した痕跡を残さず、最も得をする形でだ。うまい方法を考えなければ。
「だけど、やっぱり今回も損しかしてないな」
舌打ちをしてぼやいてみたが、聞いている者はいなかった。風のつめたくなってきた街路を歩きながら、ズボンのポケットに手をつっこんだ。
顔に広がったカビの醜悪さは、昼の明るさには耐えられない。人とすれ違うたびに、嫌なものを見るような眼で見られ、笑われたりもしたが、いまはさほど気にならなかった。そんなことよりも、いかにカビの浸食を抑えながら利益を出せるか、と言う計画について考えることに、夢中になっていった。
もはや、これまで感じてきていた感傷など、微塵も残っていなかった。
なるほど。坂島の言う通り、物事はとらえ方次第で、凶にも吉にもなるものだ。いまは、凶ばかり引いているが、いまに一発逆転の吉を引きかねない。そう思うと、自然わくわくとしてくる。いまにも走り出したくなる衝動を抑えながら、駅の階段を降りて行った。
電車を降りると、外灯に照らされた街路を走り抜ける。途中、角を曲って路地裏を抜けた。つん、と鼻をつくような水の匂いに向かって、持っていたカバンを投げた。ぽちゃ、という水音を聞いてから、大きく息を吐き出した。これで、証拠はどこにも残らない。