紅筆伝 1-5
五
「貴様、いい加減で、店閉まいするのを辞めたらどうだ」
店の中へ入ると、壁まで積みあがっている本の多さに、気圧された。八枯れは、それを眺めながら、ため息をつくと、勝手に座敷の上に上がって行く。それを見ていたタチバナは、無表情の中にほんの少しの怪訝さを覗かせながら、真子の手を取り、八枯れの入った部屋へと案内した。ここで、座って待っておいで。そう言うと、真子の頭を撫でて、台所へと向かう。
「お前にそんなことを言われる謂れは無いな。どうせ、閉店の意味さえ知らんくせに」後ろ姿で、抑揚のない声でつぶやくと、八枯れの尻尾を蹴飛ばした。
「貴様ら、赤也と言い。本当に足癖が悪い」
「それだ」
「どれじゃ」
「どうせ、今回も坂島の坊っちゃんの差し金なんだろう。どんな面倒事を持ち込んだのさ」
タチバナは、機嫌悪そうに髪の毛をゆらすと、湯呑に茶を入れ始める。真子も手伝う、と、元気に立ち上がると、タチバナのそばまで走って行った。
「違うな。今回はそこにいるチビのわがままだ」
「へえ」タチバナは、一度目を見開いてから、真子を見下ろした。「どうしたんだい?何かあったのかい?」と、真子のまん丸の両目を、やわらかな眼差しで見つめた。
「あのね、真子ね、みかんちゃんに会いに来たの」
「そう。それだけかい?」
「それだけ?」
「うん、例えば願い事なんかは無いのかい。真子、君の頼みなら、どんなことでも聞くよ」猫なで声を出して、真子の頭をなでると、ふふ、くすぐったいの、みかんちゃん。と、嬉しそうに笑っていた。
八枯れは心底から、嫌そうなものを眺めるように表情を浮かべ、尻尾を揺らした。
「気持ちが悪い」
「何が」
「貴様だ。いや、貴様らだ」
「お前には、愛情と言うものが無いのかい」
「貴様にだけは言われたくない。絶対に、言われたくない」
「何故だい。お前は本当に失礼だね」
不機嫌そうに眉根を寄せると、盆の上に人数分の湯呑をのせて、歩き始めた。その時だ、店の外から呼び鈴を鳴らす音が響いた。それに気を取られ、一瞬傾いだ、体が、湯呑を真子の足元に落とした。
「!」
真子、と、叫ぶ前に、湯呑は真子の足の甲にぶつかり、割れた。中に入っていた茶が、彼女のふくらはぎ辺りまで、飛び散った。
「や、八枯れ、どうしよう、は、早く、布巾を、いや、氷を……」
「貴様は、何を慌てている」
「何って、お前は馬鹿なのか!真子の足が怪我を……」
「けが?」
八枯れは心底から、怪訝そうな表情を浮かべて、ちら、と真子を見つめた。どこも怪我していないぞ。と、低くつぶやいた。
その声につられ、真子の足を見ると、皮膚が、爛れる前に、治っていくのを目の当たりにした。切れたはずの指先の傷も、見る見るうちに、消えてゆく。
タチバナは呆気に取られ、しばらく無言になった。おかしい。真子には、なんの能力も無いはずだ。いや、坂島赤也からは、そう聞かされていた。
「みかんちゃん、大丈夫?怪我してない?」
「いや、私は大丈夫だ。君、君だよ、真子……。どうして……」
タチバナの狼狽した声を聞いて、真子は、ああ、と、明るい声を上げた。
「あのね、真子、身体がすっごく強いの」と、元気よく笑った。