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紅筆伝(こうひつでん) 1-1
第一章
一
彼女をタチバナと名付けたのは、僕ではなかった。
「どうして、タチバナなんだ?」
ふと縁側で横になって、本を読んでいると、思いついたように口を開いた。座敷の上で、邪植とババ抜きをしていた東堂シマ子は、茶色い長髪をゆらして、笑った。
「ふと、恋を思い出す花としては有名ね。昔の恋を思い起こさせる花として、平安から存在している花があるでしょう。それが、橘の花。花言葉は、追憶。晩春から初夏にかけて、小さな白い花を付ける。古くは柑子(こうじ)、判りやすく言えば蜜柑の花だが、平安期から文様化され、「伴大納言絵詞」や「春日権現験記」などの絵巻物にも、数多く描かれているわ」
得意そうに話す東堂を、鼻先で笑って、片眉を上げた。
「だから、なんだ。彼女の名前と、由来に何か関係が?」
「あんたの血を継いでいるんでしょ。だったら、絶対、化け物に違いないんだから」
東堂は、堂々と、偏見をのたまい、邪植の持っているカードを一枚抜いた。あ、ちょっと、それはダメっすよー……、と小さく嘆いている声が聞こえる。それを横目に眺めながら、僕は本のページを一枚めくる。
「血はつながっていない」
「従妹なんでしょ?」
「ばあさんが、施設から拾ってきて育てたんだよ」
「やっぱり、化け物じゃない」
僕は呆れた様子で、起き上がると、持っていた本を閉じた。邪植はそれに苦笑を浮かべて、茶をすすった。
「たしか、「不老不死」という意味もあったんじゃないっすか。東堂さんは、そっちの話をしているんじゃないかなあ」
かなあ。じゃないだろう。僕は左眉をよせた。そばで、ぐうぐう寝ている八枯れの尻尾を、軽くつかむと、ゆっくり引き延ばす。大食い鬼は、それでも目を覚まさない。
「まあ、俺がタチバナさんの所に居たのは、赤也さんと知り合う前でしたからね」そう言って、邪植は、懐かしそうに眼を細めた。僕は、ふん、と鼻を鳴らして、煙草盆を引き寄せると、一本くわえて火をつけた。
東堂は、手の中に持っているトランプの一枚を、座敷の中央に向かって、投げた。うちに来てやることが、ババ抜きというのは、どうにも子供じみている。それの相手をするのは、いつも邪植だった。
「なあ」
「なによ」東堂は、少なくなった手札に喜んだ声を上げる。
「二人でババ抜きって、楽しいのか?」
僕のつぶやきに、東堂は、はあ、っと、きつく睨みつけてくる。「だったら、あんたも参加しなさいよ」と言われたが、丁重にお断りした。
邪植は淡々と、カードを捨てながら、こぼすようにつぶやいた。
「懐かしいっすね。タチバナさん。元気かな」
「元気だろう。こないだの黴事件を忘れたのか?」
こないだの事件とは、タチバナが寄越した面倒事だった。
ある陰鬱な男の顔面に黴が生えたから、はがせ、という話だった。いろいろ、文献を漁って試してはみたが、結局、彼の黴は完全に取り去ることはできなかった。その後、どうなったのか、僕は知らない。
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