静寂の歌 2-9
九
「いいんですか。あんな勝手なこと言って」
さびついた鉄の階段を降りてから、振り返ると、ふてくされた顔をしている邪植と眼があった。僕は両肩をすくめて歩き出すと、コートのポケットに手をつっこんだ。
「どうせ片をつけるのはこっちだ。木下に知られなきゃ、問題ない」
「そりゃあのクソ野郎に比べたら、こっちのいも野郎のほうがマシですけど」
「クソといもに何か違いがあるのか」
「雲泥の差です」
「なら良いじゃないか」
「赤也さんばっかり貧乏くじ引くから」
「そうでもない」
邪植の不機嫌な理由は気に喰わない人間が、良い想いをすることなのかもしれない。苦笑を浮かべて、その幼い横顔を盗み見た。邪植はあきらめたようにため息をついている。かたむいてきた夕日の赤が、頬を明るく照らしていた。
「記憶の断片のなかで、山下とも子は泣いているか、押し黙ってうつむいているか、どちらかだった」
一度立ち止まると、邪植は真剣な眼をしてこちらをじっと、見据えてきた。坂道の向こう側に、赤い光が落っこちる。ここは昼と夜の境にある。逢魔ヶ時には、魔と出会うのだそうだ。だが、僕はすでに魔を手にしており、魔の道を歩いている。ずっと落陽を胸に抱いて、生きている。それも過ぎると、本物の化け物になってしまうだろうか。だとしても、それを悲しむ人間はどこにもいない。例え悲しんだとしても、すぐに忘れる。なんだ、僕は夏木たちがうらやましいのか。それとも、手垢だらけの自分の生が、いまさら汚く思えるのか。どちらにせよ滑稽な感傷だな。
「夏木は良いやつだ」
数十メートル先に見える交差点に目を落とす。人に交じって行き交う黒い影は、一度長く伸びあがって、ゆらめいた。邪植は、わかりましたよ。と、言って肩をすくめると、薄暗い坂を上がりはじめた。その後を追いながら、煙草を取り出して口にくわえた。
「クソ野郎には何て言うんですか?」
「死んでいたことにすれば文句ないだろ」
「信じますかね」
「死体を出せと言われたら、困るな」
「考えなしですか」
「そうでもない」
にい、と口のはしを上げて笑って見せる。マッチをこすり、先に火を灯すと、紫煙を吐き出した。邪植は一瞬、呆けた顔をしてから、ぶる、と全身を震わせた。目が昔に戻ってましたよ、とつぶやいた言葉を無視して、もう一度煙を吐きだした。
ふと、すれちがった影に目がいった。それは、夏木のアパートに向かうために追った影と同じものだった。たしか消したはずだ、と立ち止まる。ず、ず、ず、と片足をひきずって歩いて行く山下とも子の影を見据えながら、煙草を吐き出した。足の先で火を揉み消しながら、ポケットにつっこんでいた塩を、影に向かって投げつけた。
影はじょじょに溶けてゆき、最後は灰のようになって崩れる。アスファルトの上に砂山のように積もった黒い粉に、そっと触れる。突如、脳を左右にゆさぶられた。とてもまともではいられないほど、視点はめまぐるしく変化して、混在してゆく。なんだ。なんだ。この影は誰の記憶だ。景色はぐにゃぐにゃに混ざりあって、なんの情報もとれない。途端、真っ暗闇になって落っこちた。視界の途切れる瞬間に、耳の奥であのメロディーが流れていた。「Let well alone. Let well alone……」あの歌だ。「静寂の歌」が、はじめから終わりまで、脳に直接語りかけてくるように響きわたった。断片が途切れる。焦点を戻すと、アスファルトの上で長く伸びる、僕の黒い影があった。
知らず、尻もちをついていたのか、駆けよって来た邪植に背中を支えられる。しっかりしてください、と肩をかつがれ、立ち上がった。手のひらにじっとり、と汗をかいている。シェイクされた頭を軽く振って、ようやく息をついた。
「何を見たんですか」
「歌だ」
「歌?」
僕は邪植の腕から離れると、藤本の家に向かって歩き出した。赤也さん、待ってください。ちょっと。と、後からあわてて邪植が追いついてきた。