黴男 1-6
六
「じゃあ、三時間くらいしたら出てきてください。その間、何をしていても良いですけど、絶対お湯からは上がらないこと。いいですね?」
タオルと、洗面具、水分、数冊の本を手渡され、簡潔にそう言われた。受け取りながら、軽くうなずくことしかできなかった。
まさか、初対面でいきなり入浴をすすめられることになるとは、誰が予想できたろう。
黴をはがす、と言う。そのためには、三時間湯につかっていなくちゃならない、と言われた時は、どう時間を潰せば良いのか、とごねた。
坂島は「仕方がないですね」と、言いながら立ち上がると、座敷から出て行った。数分して戻って来ると、数冊の本を手に持っていた。
それは僕でさえも読んだことのない古いものばかりで、案外と蔵書家なのかと、感嘆のため息をついた。奥の小さな蔵には、もっと古いものがある、と聞いた時には閉口した。
くわしい話しを聞いてみると、どうやら、口コミではそれなりに有名な貸し本屋のようで、常連客もついているらしい。
あのタチバナでさえも、そのうちの一人なのだそうだ。なるほど。変わってはいるが、たしかにここも店なのか。湯につかりながら、ふと目にとまった本の題名に、言葉を失った。
「黴の、はがし方?」
あまりのことに、それを手に取ることができなかった。坂島から渡されていた本を、いくつか開いてみる。
『星のつかまえかた、食べ方』
『どうして人は悪いことを考えるのか』
『うそつきな怪物の法則とその傾向 対策編』
『若がえりの水と詩歌の関係』
など、どこから出ているのか、誰が書いているのか、よくわからない本ばかりだった。はは、と短く笑い声を上げて、『黴のはがし方』なる本を手に取る。
表紙は黒く、題名の印字は白い。しおりの紐は赤で、それだけがなんだか特別なもののように感じられ、ホッと息をついた。
ページを開いてみると、図と解説までついて、案外と細かいことまで書いてある。驚いた。
「一、黴が生えてしまってもあわてない。
二、神社の水や、寺の水など清められた水で湯をはる。
三、湯に三時間から六時間ほどつかる。場合によって異なるが、つかる部分は、体半分ほどで構わない。
四、黴が浮き上がってくるのを待つ。
五、黴が浮き上がったら、体をよく洗う」
いったいどこまで本当なのだろうか。
しかし、坂島はこの本の手順通り、僕を現在湯につからせているではないか。
すみません。うす曇りの硝子戸の向こうに向かって、声をかけてみる。「何か?」と、言う返事が返ってきた。
「この、『黴のはがし方』だけど」
「ええ。その通りにやっています」
「本気?」
「ええ」
あまりにもすんなりと頷くので、一度黙りこんだ。
なぜって。こんなもの、どう信用しろと言うのだろうか。
すると、坂島は愉快そうに笑い声を上げて、「黴が生える原因、を読みましたか?」と、聞いてきた。言われて見ると、たしかに「原因」の項目がある。
「なぜ、黴が生えてしまうのか?でき物の類では、諸説さまざま見解が異なる。呪を受けて出来てしまう場合もあれば、病気の一部として出てくる場合もある。
しかし、まれに人体に出るはずのないものが、出てくることがある。黴もそのうちの一つで、原因はそれこそ個人差であるが、もっとも一般的に言われているのは、その人間の思考の陰湿さ、執拗さにある。
執拗さの種類も多岐にわたるが、主に些細なことや、過去にこだわりすぎたりして、前に進めなくなった人間に出やすい、という報告がある。他にも、罪から逃れるために嘘をつき続けていたり、自分だけ特別だと本気で信じている者にも、同様の症状が見られる」
一瞬、ひやり、としたが、思考をふり払った。
強気でいようと、肩をゆすった。
ふざけている。こんな馬鹿げた説明にもなっていない解説を信じろ、と言うのか。
否、もしかすると、僕を騙すためにわざわざこんな本を、渡してきたのかもしれない。不機嫌になって、本を投げた。
檜の蓋の上に落ちた本は、汗をかいて、若干湿っていた。だいたい、肝心の「なぜ考えたことが現実になってしまうのか?」などは、書かれていない。それでは意味がないではないか。
「あんたも結局、僕が根暗だから、って言いたいんでしょう」
「いえ、著者がそう書いているだけです」
そう言われ、著者の名前を見たが、「坂島恭一郎」と印字されていた。一瞬、おや、と言葉を失ったが、すぐに怒りが込み上げてきた。
あんたの身うちじゃないか。ふざけるなよ。と、不機嫌に言った。しかし、坂島はそんなことに一向頓着することなく、「そうですか」と、短く相槌を打った。
「ともかく、そのくらいしか文献がないんです。俺だって、初めてのケースで、とまどっているんですよ」
そう言った坂島のやわらかな声に、あとはもう黙るしかなかった。無理を言っているのは、こちらである。
仕方がない、とそれ以上ごねるのを止めた。どうせ異常なことしか起こっていないのだから。いまさら、何をどう言っても仕様がない。なるようになれ。本を放りだして、天井を見上げる。湯気で霞む視界の中で、ふと外のことが気になった。
扉の向こうにまだいるだろう坂島に、彼自身のことを聞いてみた。「暇つぶしの話し相手」と、いう意図を酌んだのか、少し迷惑そうではあったが、簡単に自分のことなどを話してくれた。
話しによると、坂島の家は古くから妙な力のある者が生まれやすく、霊感の強い者が、そのまま家業を継ぐことになっているらしい。
家業と言うのが、曰く「当主」なるものらしいが、それも正確ではないようだ。当然、これ以上詳細に話しを聞く場合は別料金が発生する、と言うので止めた。
「だけど、意外ですね」浴室に反響した声に、抑揚の乏しい声が返ってきた。
「何がでしょう」
「いや、坂島さんって隙がないように見えるから。初対面の相手に、こうもあっさり自分のことを話すとは、思わなかったんですよ」
坂島はそれっきり黙りこんだ。何か言うのだろうと思って、僕も黙っていた。
両手で湯をすくうと、顔を浸した。ゆれる水面に、いくらか水滴の落ちる音が、響いた。半身浴と言っても、さすがに三時間保つかしら、と心配になる。細かく水分を取ってはいるが、やはり暑いものは暑い。
「なぜでしょうね」
坂島は困ったような声で、笑った。その声に顔を上げたが、湯気が濃いせいでよく見えない。うすぐもりの硝子の向こうで、黒い後ろ頭だけが、かすかにゆれた。
「タチバナとは、いつから?」
「さあ、覚えてませんね。それほど親しい訳ではありませんから」
「同じだ。僕も、彼女のことをよく知りはしない」
「知りたいと思いますか?」
「思わない」
「なぜ」
「知っていても、いなくとも、関係そのものは変わらないから。だったら、聞かなくても良いでしょう」
何がおかしかったのか、坂島は突然大きな声で笑いだした。あんなに端正な顔立ちをした人間が、声を上げて笑うものなのか。
覗いて見たい気もしたが、「何をやっても良いが、浸かってろ」と、言われたのを思い出して、大人しく湯船に戻った。良いことを教えてやるよ、蒲田さん。坂島の愉快そうな声に、硝子戸を見た。
「タチバナはね。わざとあんたに言ったのさ」
「わざと?」
「悪いことを考えるな、と言うのは、つまり悪いことを考えろ、と言うことなんですよ。あなたがそうなるよう、意識させたんだ」
「なぜ」
なぜ?聞かなくとも、わかっていた。ふつふつと、沸き上がってくる怒りを、拳の中にねじこみながら、黙りこんだ。坂島は、浴室の扉から遠ざかると、楽しそうな笑い声を上げた。
「うらやましいね。仲が良くて」
人を玩具にすることのどこが、「仲が良い」んだ。言おうとしたが、できなかった。水面に何か黒いものが、浮かんでいた。あまりのことに、ハッ、として身動きが取れなくなる。
あわてて坂島を呼ぼうとしたが、よく見るとカビであることがわかり、一気に力が抜けた。そして、すぐにその希望にすがりついた。
黴がはがれた!黒いそれは、湯の中をたゆたいながら、浴室の縁にへばりつく。
そのままタイルの上をすべって、流れていった。排水溝に、吸い込まれてゆくのを見送ってから、ゆっくり首元に触れてみた。先ほどまでのざらざらとした不快な感触は、すっかりなくなっていた。