黴男 1-4
四
良いことだけを考えて生きる。つまり、道徳的、倫理的に、落ち度のない思考を保つ。そんなこと凡人に強要すること自体、どうかしている。
気に入らない奴は気に入らないし、好きだと思うものに気持をよせるのは当たり前のことではないか。そこに、人間性の妙味というものがあるのであって、清廉潔白、君子など、孔子じゃあるまいしまず無理な話しだ。
たとえば、歩道を歩きながらふと、斜め前を歩いていた茶髪の男二人が目に入る。目に入ると、話しが聞こえてくる。下品な声で、最近セックスをした女のことなどを自慢気に話している。ぎゃはは、と笑う声があまりにうるさくて、睨みつけたが、如何せん背中を向けているので効果がない。
こういう、常に自分のことしか考えていないクズみたいな奴らが、楽しそうに生きていて、なぜ僕にだけカビが生えるのだろう。
暴力をふるい、金をまきあげる夫や、浮気をして男をとっかえひっかえしている妻や、物を盗んで売った金で薬をやる男や、女を強姦する男や、同級生を嬲ってよろこぶ子供や、親を殴って金を奪う子供や、もう数えだしたらキリがないような、バカみたいな現実の横で、何もしていない無害な人間ばかり損をしている。
別に、僕は正義感の強いほうではないし、自分さえ良ければいいって言うのは、同じだから憤慨したりはしないけど。
でも、やはりなんだか妙だ。個人の価値観だけで言ったら、不公平だと思う。だけど、全体の負担で言ったら、餓死しそうな子供も、暴力をふるう子供も、まったく同じなのかもしれないと思い当ったとき、この世はまったく平等が過ぎるくらい平等にできていて、ゾッとした。
なぜって、実際的に人を生かしているものは道徳ではなく、エネルギーだからだ。
生きるためには、誰だって資源が必要だ。世間(などというものがあるなら)当たり前のように、飯の食えない人々を可哀想だと言うが(言わなきゃいけないように強制されているが)、実際彼らが飯を食えるようになったら、今度は僕らが飢えるのだ。
そんなことまでして、果たして誰が飢餓に苦しむ人々に、同情できるだろう。犯罪者数を大幅に上回る飢餓者を生かすためには、次は一般的な生活ができている者たちが、飢えなくちゃいけなくなる。
だから、僕の意味のない善悪二元論など、論外に等しい、ただの個人的な感想に過ぎないのだった。それにも関わらず、タチバナは悪いことを考えるな、と言う。
だけど、それは意識してコントロールできる類のものではない。だから、人は罪を犯す。キリスト教なんかじゃ間に合わないくらい、人の罪悪はもはや神の手も、人の手からも離れてしまっているのだから。
青い光が点滅している。
歩道を行く先ほどの若者たちは、当然自分たちのほうが優先されるだろう、と高をくくっている。だから、赤になっても決して焦らない。走ろうともしない。だらだらと、ズボンの裾を引きずりながら、アクセサリーをじゃらじゃら鳴らして、「ぎゃはは」笑っている。そのふてぶてしさたるや、「人間」の塊である。
――ああ、彼らに向かっていま車が突っ込んできたら、どうなるのだろう。
ふと、そんなことを考えてしまった。「不味い」とあわてて顔を上げたが、もう遅い。
しびれるような鋭い痛みが、頭に響いてよろめいた。ぐにゃぐにゃ、と視界がゆれる。息が切れる。額に触れると、ざら、とした感触が広がっていた。かすかに指にこびりついた湿り気、そして香る、胃を焼くような妙な匂い。これはカビの匂いか?それとも……。
喉が焼けた。その瞬間、車の鳴らしたクラクションと、ガードレールにつっこんだ破壊音が、街の喧騒をかき消した。
人々は足を止め、煙の上がっている方向へ、一斉に視線を投げた。ざわめく声さえしない交差点では、街頭モニターから流れてくる広告の音だけが、やけに空虚に響いていた。
実際の事故現場とは壮絶なものだ。
タイヤのスリップ痕が、生々しくきざまれ、つっこんだ拍子に、ひしゃげたガードレールには、車体の塗装が付着している。割れたフロントガラスから、運転手の上半身が飛び出しており、頭を硝子で切ったのか、ボンネットの上に血だまりができていた。
見ると、タイヤの下に一人、跳ね飛ばされ道路の真ん中でうつぶせになっているのが、一人いた。先ほどまで、下品な笑いをしていた茶髪の男は、ピクリとも動かなかった。
「おい、まだ生きてるぞ」
そう叫んだ中年の男の声によって、辺りに安堵の風が吹いた。その声を聞いてもなお、僕だけは迫りくる恐怖から逃げそこなっていた。
足から力が抜けてしまい、ずっとうつむいていた。ようやく顔を上げることができるようになったのは、救急隊の人間が、重傷の運転手を引きずり出したあとだった。すでに救急車や、パトカーも到着していた。
その喧騒は遠い。なぜだろう。気がつくと、通りから少し離れた先にある花壇の淵に座っていた。震える両手が、膝の上で組まれている。僕は、事故現場からだいぶ遠くに移動していた。いつ、その場から逃げたのかさえ、記憶にない。それがなにより恐ろしかった。
顔を上げ、目の前の窓硝子に映った自分の顔を見て、言葉を失う。タチバナの店を出た頃には、まだ前髪で隠れるくらいの大きさだったカビが、いまはもう右目のまぶたにかかるほど大きくなっている。
遠くからなら、一瞬痣のようにも見えるが、それはやはり、たしかに黒く、しっとりとした湿り気をおびた、カビそのものだ。震える両手で顔をおおい隠す。ゆっくりとうつむいた。肩からぐーっ、と力が抜けていくような、脱力感の中に閉じ込められる。
「殺人だ」
呆然としてつぶやいた言葉を、聞いていた者はいない。
現場から遠いこの場所もまた、街中の風景の一つに過ぎない。事故を知らない人々の足は、決して止まることはなく、誰もが思考の渦の中に埋没している。
その無関心な様を見るたびに、しがみついていって弁解したくなる。
ぼくはひとをころしてなんかいないよ、と。だけど、きっと人は怪訝な表情をして、立ち去るだけだろう。
そうして僕は救われないまま、自嘲の笑みを浮かべて、その人の背中を見送るのだ。