静寂の歌 1-8
八
赤坂の駅に到着し、地上へ出ると、大通りに沿ってまっすぐ歩く。街灯のオレンジに照らされた木下社が、神経質そうな眼鏡を押し上げて、僕に手を振った。それに首肯して応えると、コートのポケットに手をつっこんで、木下の横に並んだ。
「おでんが食いたい」
後ろをついて歩いていた八枯れが、機嫌よさそうに言った。木下はその声に小さく吹きだすと、眉尻を下げて足元の黒猫を見下げた。
「相変わらずだなあ、八枯れの食欲だけは」
「食は生きるに通じる。まだ小僧にはわからぬ真理じゃな」
「この先に、おいしい店があるよ。期待してくれ」
それを聞いた八枯れは尻尾を左右に振って、優雅に前へと駆けだして行った。呆れたため息をつきながら、その後を追う。
「すまなかったな。突然、呼びだして」
すれちがう人混みをさけながらつぶやくと、木下は「うわ」と、頓狂な声を上げた。僕は眉間に皺をよせて、苦笑を浮かべている木下の横顔を睨んだ。
「なんだよ、足でも踏まれたのか?」
「いやいや。君に気遣われるのはだいぶ怖いね、どうも」
「そりゃあ今まで、お前には散々ふりまわされて来たんだから。少しくらい僕のわがままを聞いても、罰は当たらないってもんさ」
「もちろん。そのつもりがなければ、今ここには居ないよ」
「ご苦労なことだ」
笑みを浮かべて立ち止まると、八枯れの尻尾を引っ張った。
「お前が先に行っても、追い出されるだけだろう」と言うと、文句を言おうとした口を閉じて、木下の後ろへと回った。まったく、食い意地だけは一人前で困ったものだ。
「そこだよ」と言われ、店ののれんを見上げた。「灯篭」と書かれた文字を払って、中へ入ると、木下と八枯れもその後に続いた。
大学生ぐらいの男の子に案内されて、薄暗い店内を通ると、奥の個室に通された。大人が四人くらい座れるほどの、ゆったりとした座敷だった。八枯れが、一早く上がりこむと、座卓の下で丸くなった。僕と木下はコートをかけて、しゃがみこむと、ひとまずビールを頼んだ。店員が行ってしまうと、すぐに木下は、黒い革のかばんの中から、茶色い封筒を取り出した。
「おいおい、嫌な予感がするぞ」露骨に表情を歪めて、おしぼりを取り出した。木下は、にやにやと笑いながら「なに、数枚の写真を見てくれたら、それで良いんだ」と、言って手渡してきた。
「お前には、守秘義務ってものがないのか」
「いまはプライベートさ」
「いつか捕まるぜ」
ため息をついて、くちびるを曲げて見せたが、やはり引っ込める気は無いようだ。しぶしぶ封筒の中をのぞいて、すぐに木下につっかえした。
「なんだよ?」木下は不満そうに、眼鏡のフレームを上げた。
「見てくれって言うから、見た」
「ちゃんと見てくれ」
「ふざけるな。食事の席で見せるもんじゃないだろう」
不機嫌そうな声を上げると、木下は眉間に皺をよせた。それと同時に、店員がビールを置いて、出て行った。
「本当に見たのか?」
「馬鹿にしているのか?どういうつもりだ。なんだ、それは」
「なにって、写真だよ」
「お前、正気か?」
「なぜ?」
首をかしげた木下に、震えるくちびるを噛みしめて、大きなため息をついた。昔から厄介なやつだとは思っていたが、ここまで頭がおかしいとは思っていなかった。それとも、ついに僕のやっている仕事を嗅ぎつけて、揺さぶりをかけてきているのか?木下が僕をハメテいる?それだけは信じたくない。
「僕は探偵じゃないんだ。それをわかっていて、そんなものを見せるからには、何か理由があるんだろうね」
語気を強めて低くつぶやくと、木下があわてて両手を振った。
「おい、ちょっと待ってくれよ。そんなに怒ることなのか?」
「どうかしている」と、座椅子の背もたれに体重をあずけた。
「そりゃあ、黙って行ったのは悪かったよ。でも、君に断る必要があるのか?新婚旅行くらいで、そんなに怒るなんて」
「なんだって?」
僕は、木下のとんだ間違いに気がついて、黙りこんだ。驚きのあとには安堵が、安堵のあとには呆れて、物も言えなくなった。そうしてしばらく、痛むこめかみを押さえて首を振った。
「いいかい、木下。せっかちな君に、良いことを教えてあげるよ」
「なんだよ、改まって」
「出る前にきちんと、確認をしたほうがいい。特に人に見せる物はね」
机の上の茶色い封筒を指さして、頬づえをついた。木下は、眉間に皺をよせて、中身を取り出した。写真を凝視して、絶句する。
「あ」と、短い悲鳴を上げて、あわててそれをしまいこんだ。しかし、もう遅い。僕は深いため息をついて、呆れた視線を投げて寄こした。木下は「見て、しまったかな?」と、ごまかすように笑っていた。
「まずいんじゃないか?まだ、新聞にも載っていない事件だろう」
木下は言いづらそうにまごつきながら「ああ、そうだ。もうすぐ、公表されるし、警戒をうながすつもりだ」と言って、すぐに黙りこんだ。
座卓の下で丸くなっていた八枯れが「ほう。なかなか、面白いものを持っているじゃないか」と言って、顔を出した。口の間には、いつ取り出したのか知れない、写真がはさまっていた。それを見て額をおさえ、ため息を吐き出した。否、怒りを抑えて、が正しいかもしれない。
木下はあわてて「駄目だって、八枯れ」と、つかまえようとしたが、無駄だった。ひょいひょい、と器用に交わして、木下の腕を飛び越えると、座卓の上によじのぼって、写真を並べた。
「人間の肉か。なつかしいのう。わしも、昔喰ったことがあるわい。なに、珍しいもんじゃない。足や手が、そこいら辺りに転がっとるのなんか、日常風景じゃ」
「それは、百年も昔の話しだ」僕は八枯れの尻を叩くと、尻尾をつかんで、眺めていた写真を奪い返す。「いまそんなものが、その辺に転がっていたら、異常なことさ。だから、事件になるんだろ」
「ふん。表面ばかり掃除したところで、汚れはとれんぞ。だから、こういう虫が沸くんじゃ」八枯れは痛む尻を舐めながら、鼻を鳴らした。
「まあ、そうだな」
木下に写真を手渡すと、うっすらと笑みを浮かべた。