黴男 1-9
九
次の日、府中競馬場に来ていた。
いろいろ考えてみたが、やはりこの線が妥当だろう。株の投資でも良いが、それならパチンコ、カジノなど、ギャンブルでも同じことだ。宝クジだと、一発当てるのは楽だが、他の奴に命まで狙われかねない。
それなら、何度か足を運び、着実に現金を手にできる賭けごとが、妥当じゃないか。僕だけじゃない、おそらくだいたいの人間が、きっと同じようなことを考えるんじゃないだろうか。リスクのことを考えれば、当然だろう。
野外の競馬場という所は空が広くて、それほど閉鎖的な感覚もなく、馬に興味がなくとも、楽しめる場所だった。僕は、よく競馬場の中を散歩するのが好きだった。大きな硝子窓に面した大会場や、外に面した座席で、オレンジジュースとピーナッツを食べながら、一日ボーっとしていたりする。馬が入った、入らないで、大声を上げるおっさん共の声と、熱気を感じながら、見上げる空はなかなか清々しいものだった。
だから、まさか自分もこの荒稼ぎと剥奪の興奮の渦に、埋没することになるとは思ってもみなかった。損得に身を投げると、散歩道が戦場へと変わるのだから、人間の欲と言うのは恐ろしいものだ。
買う番号は何でも良かった。それ以外の馬の体調を狂わせれば、自然その二頭が、前に躍り出るのだから。最初は、五番九番を買った。まあまあ穴らしいが、くわしいことはよくわからない。でも、買い手の人気はそんなになかった。百円が三千円になった。当たりだ。
次は、大穴を狙った。その三千円を一気に十万円にした。驚くほど、簡単にうまくいくものだから、急に恐ろしくなった。震える手をどうにか抑え、換金所で現金にして、その日はすぐ家に帰った。眼鏡と帽子を取って、また言葉を失う。顔の中央に広がっているカビは、黒く、端に向かうほど微かに白くなっている。首を通り、左の鎖骨にかけて、大きく広がっていた。それでも、僕の右手は、しっかりと金の束を握っている。清々しかった。
「ふふ、アハハハハ」
笑い声がもれた。鏡の前で、黒い顔をした化け物が、大きな声で笑っている。その場に崩れ落ちて、なおも笑い続けた。だけど、金はしっかりと握ったままだ。ある。たしかに、ここに十万円あるんだ。この金は、俺の金だ。いくらでも好きにできるんだ。そう思うと、カビだろうと、なんだろうと、なんでもこいだ。いくらでも、広がれば良い!そのぶん、俺は手に金を取る。
この時から、もう「筆の森」にも、坂島の家からも、遠ざかって行った。坂島の所へは、広がったカビを落としに行くぐらいだったが、落す方法だけ学んで、もうすっかり寄りつかなくなっていた。
本を買い、読んでいる時間が惜しかった。人に会って話すのも、店や家を訪ねる時間も、睡眠や食事の時間さえも、惜しかった。だから仕事も辞めた。なんと言っても、俺には幸福のカビがあるのだ。こいつさえあれば、いくらでも稼げる。なんでもできる。どんどん、得意になっていった。
それからは、毎日競馬場へと行った。最初は恐ろしかったが、あんまりうまく行くものだから、だんだん大胆になっていった。一日に三回も大穴を当てることもあった。総額は百五十万円。さすがにこれ以上は目立てない、と早々に帰宅した。カビは、肩を越えてついにはへその辺りにまで、侵食してきていた。だけど、手に握った札束を確認するたび、あまりの達成感から爆ぜそうになる。この快楽を一度味わったら、もうやめられない。だけど、今まで以上にカビの促進をうながしたことも事実だ。
その日も帰ってきたのは、夜遅かった。俺はあわてて、浴槽に湯をはると、いつものように浸かった。体の三分の一以上にも広がったカビを落とすのは、初めてだった。三時間して、ようやく首元まで落ちたが、顔全体のカビを落とすのには、さらに三時間必要だった。入浴後、髪の毛を拭きながら、ふと目に入った額のカビの黒さに、眉根を寄せた。鏡の前で、そいつを凝視した。光にかざして見て、さらに確信する。
「前より、色が濃くなっている」
つぶやいた声は、虚しく洗面台の上を伝って消えた。額をこすって見たが、やはりざらざらとした感触がするだけで、はがれそうにない。不安の渦の中に、飲みこまれそうになったとき、一本の電話がかかってきた。相手は「筆の森」の店主、タチバナだった。