黴男 1-7
七
その後、三時間湯の中に浸かり続けたことによって、顔全体をおおっていた黒いカビは、みんな消えてしまった。
しかし、最初に生えてきた部分にだけは、まだ微かに黒いものがへばりついていた。前髪のつけ根を指さして、これはどうしたら良いんだ、と坂島に迫ったが、信じられないことを言った。
「それは、取れませんよ」
なんだって?
驚きのあまり、二の句がつげなかった。
たかがカビだ、こんなもの放って置けばそのうちとれるだろう、その程度にしか考えていなかった。
楽観的だった僕にとって、あまりにも無慈悲な言葉だった。
坂島は、座卓の上にある煙草盆を引き寄せ、火をつける。紫煙をくゆらせながら、温度のない黒い双眸で、まっすぐにこちらを見据えていた。否、正確には「黴」をだ。
「あの水に浸かって落ちないのなら、あとは無理でしょうね」
無理でしょうね。そのあまりにそっけない言葉が、胸をついた。うつむきながら、震える両手を必死ににぎりしめた。
「うそだ。首元のは落ちたじゃないか。うそつきめ」
「ええ。ですから、最低限に進行を抑えることしか、できないってことです。完全に黴を取り去ることはできないんです」
「そんな馬鹿な話しがあるものか」
「蒲田さん。聞いて」
一度、カビが落ちて消えてゆくのを見ていただけに、失望は大きい。
また、あの鋭い痛みと、現実が歪んでゆく恐怖を、味わわなくちゃいけないのか。鏡を見るたびに、顔面を覆ってゆく黒いカビを、見つめる恐怖。
変えようのない現実を確かめたときの嫌悪感。見ないように、必死に顔を隠して歩き続ける苦しみ。黴男。そう指をさして笑っていられる人間すべて、いまここに引きずりこんでやりたい。
彼らには、決してわからない。
すれ違いざまに、化け物でも見るような眼で見られ、そいつを呪うと死にかける、あの嫌な後味を。惨めさを。劣敗者の烙印を。
背負わなくてもいい荷物を、ずっと意識し続けなければならない苦痛を。何か他に方法はないのか?僕は、必死になって喰らいついた。表情を変えもせず、坂島は静かに応える。
「いいですか。これから一週間に一度、必ずここに来るんだ。そうして、黴を落とす。慣れて来たら、自分でできるよう水をあげます。その湯に必ず、三時間浸かるんです。毎日じゃなくても構わない。いまはそれしか方法がないんです」
「あんたは人ごとだから、そんな簡単に言えるんだ」
「簡単ではない」
坂島の厳しい声に、つい黙りこんだ。ぴり、と喉の奥がしびれる。
「そうしなくちゃ、あなたは本当に黴になってしまうんだよ。蒲田さん」
ぐっ、と肩をおさえられて、鳥肌が立った。
ゆっくりと顔を上げると、真摯な黒い瞳が、まっすぐに僕を見つめていた。その奥では、暗い闇色がゆれている。だけど、彼は決して同情の言葉を、投げては寄こさなかった。その誠実に触れたとき、自然涙があふれてこぼれた。
ぼた、ぼた、と畳の上に雫がこぼれ、滲んでいった。
ボンヤリそれを眺めながら、腕で顔を隠すようにして、涙をぬぐう。開けた視界の先では、端正な顔立ちをした男が、変わらずにこちらを見据えていた。その口元に、もうあの冷笑はない。
「あんたでも、」
「ん?」
「あんたみたいにめぐまれた奴でも、僕のような苦痛を知っているのか?」
蚊の鳴くような声でつぶやいた。その言葉に、坂島は逡巡したのち、やわらかく微笑んだ。
「同じではない。だけど、似た苦しみなら知っている」と言って、肩から手を放した。
「そうか」と、つぶやいて立ち上がった。「苦しみ」の中身を聞こうとは思わなかった。無言を、先ほどの了承と得たのか、簡単に次に会いに来る日にちだけを決めて、送り出してくれた。
外はすっかり暗くなっていた。門前まで見送りに出てきた坂島の横に、大きな黒猫が立っていた。
先ほどまで、縁側で眠たそうにしていた猫の眼は、薄暗い闇の中で黄色く光っている。
「何も考えないで、ごまかすのが一番良いですよ」
「ごまかす?」
「そうですね。例えば、悪いことってどうして考えてしまうか、今まで考えたことありますか?」
正直に首を横に振った。
「うん。まあ、例えば、電車の中で汗っかきで太った男が、隣に座ったとしましょう。あなたはすぐ、うわ、気持悪い、暑苦しい。早く降りろよ。と、考える。それが現実になってしまう」
「ああ、目的地でなくとも降りるだろうね。それで、額のカビは、また大きくなる」
「そうです。だから、考えをそこで転倒させる」
「そんな難しいこと」
「いや、簡単ですよ。あなたが腹を立てる理由は、ある行為や特徴が個人に集約しているからだ。この場合、誰だって汗をかくんだから、同じだ。目的地に行きたいのは、みんな一緒なんだから。と、片付けてしまう。あとは何も考えない」
「だけど、天道虫の場合そうはいかない」
「それは、ただ天道虫だと考えれば良いだけです。前後に物語が発生するから、それが現実になってしまう。それなら、純粋な記号としてとらえるしかない。どこから来たのか、これからどうなるのか。そのようなことを一切、考えない。そこに、それは居るから、在るのであって、なぜ在るのかと、問わなければ良いんだ」
「なぜ在るのか?」
「そう、なぜ在るのか」
帰る直前になって、坂島はそのようなアドバイスをして、あとは笑っていた。
猫も尻尾を振って、双眸を細めていた。まあ、やってみるよ。簡単にうなずいて、坂を下りて行った。人とすれ違うたびに隠していた顔を上げて、空を仰いだ。
帰り道は、坂島の言葉が効いたのか、それほど思考も混乱することなく、無事アパートにたどりつくことができた。
もう一歩も動けない。それほど、体はぐったりしていた。心身ともに、疲れきっていた。これならよく眠れるだろう、とそのまま布団にもぐりこんだが、如何せんそうもいかなかった。
なぜかその夜は、あの猫の黄色い眼ばかり思いだして、眠れなくなった。次に行った時は、名前でも聞いてみようか。
そのような、取りとめもない思考の渦を泳ぎながら、古い天井を見つめていた。そうして、ふと思いだした坂島の問いの先に、自分の中で抱えているある矛盾を見出していた。
八へ続く