仕事というものについて。【企画参加】ぶっとばす。
ここ一週間ほど、本来の仕事と合わせて、執筆をしながら、自己を見つめる時間が増えた。
小説を通じて、自分自身をアウトプットしてゆくと、新しい気づきを得ては、反省し、調整をする、ということの繰り返しだった。
お金をいただかずに、一生懸命働くことにより、それは鋭さを増してゆく。
にちにち、「仕事」というものについて、考える時間の濃密さが、増した。
一人でも楽しんでくれたら、こんなに満たされるのか。
そう感じた時の幸せは、決して金では買えないものだった。
人は結局、自分のやりたいことしかやりたくないのだ。
金のため、生活のため、仕方なく働く。それも良いだろう。
むしろ、それが大半だ。そして、それを全うできる人たちを私は、心から尊敬している。
しかし、そうじゃない奴らがいる。
資格取得のために、金や時間をつぎ込んで、親の時間を奪い、平然と「自分の力です」という面をする。
そして、資格を生かして就いた仕事も長続きせず、やれ時給が安いだの、正社員じゃないだの、人間関係が良くないだの、仕事をやって金を得ていれば当然出てくる愚痴を、まるで悲劇のように人にもらしては、恥ずかし気もなく、すぐ会社を離れて、次を探す。
無知。
無恥。
むちの極み。
私はそういう人の愚痴を聞きながら、うんざりしてばかりだ。
感情で動いては後悔する、あなたのためにどれだけの人が時間を費やしているのか、想像してほしい。
そう説教しようとも、彼らの耳に届くはずはない。
私は恥をかき捨て、一度本気で話したこともある。
身勝手なふるまいばかりしていたら、それこそ本当に社会から愛想をつかされると。
見捨てられると。
今ある状況は当然じゃないんだ。と。
私のようになってはいけない。と。
頭を下げて済むなら、いくらでも下げろ。
しがみついてでも、今の場所で働くんだ。と。
私のように、病気になって、生活保護に入りたく無ければ、できる仕事は全部やるんだ、と。
私も、五年前まで、つけあがっていた。
いくらでも、やり直せると考えていた浅ましい若さ。
時給の高低差で、会社を侮る傲慢さ。
しかし、金を無くせばわかる。
明日、食うに困ればわかる。
1円だ。
0円ではない。
1円でも、多く稼げることがどれだけ、ありがたいことか。
君たちは、冬を目前に、千円札を片手に握って、泣いたことはあるか?
私はある。左足を脱臼し、誰にも相談できなかったあの秋に。
母が、私を生活保護へつないでくれたんだ。
ああ、明日の飯にはもう困らない。
そういう感謝があれば、どんな辛いことでも、乗り越えられる。
お金をいただいて働く限り、嫌な目にあうのは当然だ。
しかし、それを超える感謝があれば、耐えられるはずだ。
「お金にならないことに、一生懸命だね」
そう嫌味を言われても、今の私は平気であった。
金なら、どこででも、選びさえしなければ、稼げるが、
小説の読者は、いくら金を積もうと、存在しないのだから。
人の心が動くのは、決して金だけではねえよ。
そう言ってやりたいが、強欲にまみれた人間の耳には届かないだろう。
そいつらは、自分に嘘をついて生きている。
だから、何かといちゃもんをつけているだけだ。
どんな状況だろうと、自分自身にさえ誠実に生きていれば、他人のことなど気ならない。
生き方をあなたはいま問われてるんですよ。
そう言いたかった。
だけど、言えなかった。
だから、私は私の生き方で、過去の自分をいつかぶっとばす。
ついでに、強欲をぶっとばそう。
人のために生きること。
それを選んで、貫けば、少なくとも後悔はしない。
良い人であるよりも、誠実な人でいたい。
どこまでも、まっすぐに。