黴男 1-1
黴男
一
はじまりは、ほんの些細なことだった。
僕は元来根が暗く、友達も数えるほどしかいない。人と笑っておしゃべりをしたり、買い物をするよりも、本を読んだり、川べりを散歩しているほうが楽しい。なんにもない草っぱらで、いつまでも川の流れを眺めているほうが、心が休まる。
暗い。だから、考え方までカビが生えてくるんだ、たまには虫干しをしたらどうだ、本と同じで手入れをしないと、頭まで状態が悪くなるんだよ。と、友人に言われたが、本気にしていなかった。だけど、実際に頭にカビが生えてきた時は、黙りこむしかなかった。まだまだ世界には、はかり知れないことがあるらしい。しかし、驚きよりも先に、腹立たしさのほうが沸き上がってくる。
まったく、あいつがそんなことを言うから、本当に生えてきてしまったじゃないか。頭の中で、そうつぶやくと同時に、前髪のつけ根にこびりついていた黒緑色をしたカビが、少し大きくなった。ぎょっとして、持っていた鏡を床に投げた。おそるおそる触ってみると、しっとりと濡れている。指先でなでると、ぞりぞりした感触がし、鳥肌が立った。
本当にカビが生えている。そう実感し、なんだか気味が悪くなる。なぜ、生えてきたのだろうか?なぜ、大きくなったのだろうか?まさか、変則的に成長するものなのだろうか。そうだとしたら、ますます嫌になる。僕は、もう一度鏡を手に取って、そっと覗きこんだ。
暗いところで見ると、まるで痣のようだ。直径三センチくらいの小さなカビが、前髪のつけ根にへばりついている。少し首を傾けて、明るいところで見る。中央は黒ずんでおり、周辺に向かうにしたがって、白っぽくなってゆく。まるで、生きた虫がずっとそこにくっついているようで、気持ちが悪い。やはり、どこからどう見ようとも、それはカビに違いなかった。
そもそもカビとは何なのだろうか。ぐっと、眉根をよせたまま、近くにあった辞書のページを繰った。
「黴。菌類のうち、菌糸からなる原糸体をつくり、子実体をつくらないものの慣用的名称。飲食物、その他有機物質の表面に生え、人間の生活と関係の深いものが多い。……ふん」
気に入らなくなって、辞書を放った。フローリングの上で横になって、天井を睨みつけた。馬鹿馬鹿しい。人間の生活に関係が深いだって?だからって、いつ人の額に住みついて良いことになったんだ。だいたい、僕は有機物質に違いないが、一応生きた人間なんだぞ。もう少し、場所を選んだらどうなんだ。
ぐだぐだとつぶやきながら、ふと横を見ると天道虫が、床の上を歩いていた。赤い小さな虫の向かう先には、タコ足配線が転がっていた。いくつもコンセントをつないでいるため、夏などは異様に熱くなる。
もし、アレが天道虫を焼き殺したら、どうなるだろう。ほぼ無意識にそんなことを考えた。瞬間、額に痛みが走る。なんだよ、とカビの生えていた部分をおさえて、先ほどの天道虫を見ると、真っ黒に焦げて引っくり返っていた。
「……うそだろ」
あまりのことに、勢いよく起き上がった。目の前では、天を向いたままピクリともしない、天道虫が転がっている。ほんの少し焦げくさい気もしたが、それ以上に信じられない今の状況に、言葉を失った。じわじわと、広がる額の汗をぬぐいながら、先ほど急激に痛みだした、前髪のつけ根を触った。気のせいだろうか。また、カビが大きくなっている。どういうことだろう。
なんだか、無性に恐くなった。いまの自分にか、考えていたことが現実になったことにか、額にカビが生えていることにか、カビが徐々に大きくなっていることにか。おそらく全部だった。
空調の乾いた音だけが、部屋に響いている。はっきりと聞こえてくる。このままでは、何か良くないのではないかと、危機感を抱いた。ほとんど意識せずに立ち上がって、近くにあったジャケットを羽織っていた。誰に相談するか。友人の少ない僕は、そんなこと初めから決まっている。スニーカーをつっかけて玄関を飛び出すと、神保町にある例の古本屋へと向かった。