静寂の歌 1-7
七
昼飯も食い損ねているので、機嫌が悪いのは確かだ。今日は木下に飲みにでも、連れて行ってもらおうか。呆然とそんなことを考えていたが、少しも立ち上がろうとしない生徒たちを不審に思い、顔を上げた。
「どうかしましたか?」
「だって」純一が、苦笑を浮かべてつぐもの方を見つめた。「僕たちは済みましたが、先生は自己紹介をしていないじゃないですか」
「先生とはそういうものです」
「本当にずるいなあ」みんなの呆れた視線に、苦笑を浮かべてごまかした。みのるには「先生がこの中で一番、いい加減ですよ」と、非難された。まあ、その通りだ。
「坂島赤也です。三十三歳独身、彼女どころか友人も、あまりいません。この屋敷で、祓い屋と言う仕事と原稿の執筆など、まあ、いろいろやっています。身入りのほとんどは、そっち頼りなので、私塾で金はとりません。僕は金が間に入ると、冷酷になるそうなので、君たちからはとれません。どうしても、と言う人だけ、後ろの戸棚にお気持を、置いて行ってください。それは、金じゃなくても良いです。道で拾った小石、手紙、折り紙、まあ、いろいろです」
「せーんせ。大事なこと言ってませんよお」と、さゆりが余計な茶々を入れる。そのにやにやした笑いを見つめ、頭をかくと、ため息をついた。
「今日はこれでおしまいです。さようなら」と、言って立ち上がると、一早く座敷の襖を開けて、廊下へと出て行った。八枯れも、丸まっていた体を伸ばしながら、僕の後を追いかけてきた。
後ろではさゆりとみのるが、何やら騒いでいるようだったが無視した。残念ながら、今日はまだまだ、片づけなければならない問題が、山積みなのだ。
「あの子供」
黒い尻尾を左右に振りながら、八枯れがぼそり、とつぶやいた。僕は視線だけで見下ろすと、眉間に皺をよせた。
「つぐものことか?」
「妙だ」
「まあ、変わってはいるね。蛇もくっついてるし。反抗的だが、なかなか可愛い子じゃないか」
「そうじゃない」
めずらしく思案気な声を出す八枯れに、一度足を止めた。黄色い双眸を細めて、僕の顔をじっと見つめると、鬚をひくひくとさせた。
「わしと同じ匂いがする」
「何だって?」
寝室に入ってすぐ襖を閉めると、座布団の上にしゃがみこんだ。八枯れは、黒い尻尾を左右にゆらしながら、丸くなると、「そのままの意味じゃ」と、言って大きなあくびをもらした。
「あの黒いものも、鬼ってことか?」
「そうじゃない」
八枯れは、にやにやしながら、顔を持ち上げた。その視線の先には、未だ眼を覚まさない錦と、邪植が横たわっている。額には、僕が書いた縛りの札が貼りついている。これは、貼りつけた者にしかはがすことができないし、一度貼りつけられたら、自由に動くことができなくなる。
未だ意識のはっきりとしない二匹を見つめながら、顎をかいた。
「こいつらの様子のおかしさと、関係があるってことか?」
「そうとも限らん。ただ、あの子供は少し変だ。人の匂いがしない」
要領を得ない八枯れの話しに、腕を組んでため息をつくと、声を荒げた。
「やはり、人ではないって言っているんじゃないか」
「わからんやつだな」
「お前が珍しく焦らすからだ」
「そんなつもりはない」
黄色い双眸を細めて、鼻を鳴らした。
「わしは、大体において情の匂いが、人の匂いだと思っとる」
真剣な声音に一度口をつぐんで、じっと八枯れの丸くなった背中を見据えた。年季の入った黒い毛は、けばだってもなお、かがやきを失ってはいない。
「あの子供は、貴様のクソガキだったころに、よく似ている。間違うなよ。似ているだけで、同じではない」
黄色い双眸の奥で、僕の困惑した顔が二つ浮かんでいた。
「ともかく、気をつければいいんだろ」
「それで済めば良いがな」
このときようやく八枯れが、何を言おうとしているのか、理解した。ハッとして息を飲むと、眉間に皺をよせた。
「お前と似て、大食漢だってことか?」
「阿呆め」
呆れた声を上げて、鼻を鳴らした八枯れに苦笑して「冗談だ」と、つぶやいた。立ち上がって、戸棚の上に置いていた小さい受話器を手に取ると、番号を押した。八枯れは怪訝そうな表情を浮かべて、「どこにかけとるんじゃ」と、言って鬚をひくつかせた。
しばらくのコール音の後に、「はい、木下ですが」と言う、低くかすれた男の声が聞こえてきた。僕は受話器を持ったまま、障子の戸を開けて、縁側に出る。
「寝起きかい?良いご身分だね」
声を低くしてそうつぶやくと、木下社は電話の向こうで笑いだした。気だるい声をほんの少し高くしてから、愉快そうに応える。
「なんだ、君か。どうした?」
「今日の夜、場所は赤坂でどうだ?」
「親友の頼みだ。どうにかしよう」
「嘘をつくな。どうせ、そっちにも企みがあるんだろう」
「君にだけは言われたくないね」
「じゃあ、よろしく」受話器を置くと、一つため息をついた。
頬をなでるつめたい風に、ふと顔を上げた。庭にある丸池に、赤い楓の葉が一枚、落ちる。そういえば、錦はいつもそこから顔をのぞかせて、僕のことをじっと見守っていたな。
「厄介なことばかりだ」
「ほう、意外だな。傷ついているのか?」
「そう見えるか?」
尻尾をゆらしながら、縁側に出てきた八枯れの頭を軽く、なでた。
「心を操るやつってのは、いったいどんなやつだと思う?」
「知るものか」僕の手を払うと、不機嫌そうな声を上げた。
「ないけどある、か」
「なに?」
微笑して足を組んだ。膝の上で肘をつくと、頬づえをついて紫色に染まってゆく、夕焼けを見上げた。その境界はひどく不安定で、いまにも真っ黒に染まってしまいそうだ。照りつけてくる赤い斜陽に向かって、八枯れはつまらなさそうに、あくびをもらした。