いじめはなくならない。
3回目にして物議を醸しそうなトピックをぶちこみました。
まず中の人のスタンスとしては、
いじめ=悪
のスタンスであることを前提に読んで頂きたいです。
またこの記事は学校でのいじめについて扱うものとします。
ではなぜ『いじめはなくならない』か。
まず、世の中の共通認識として『いじめゼロ』を掲げています。
否定はしません。
最初に書いたように私のスタンスはいじめ=悪です。
しかしそれが、些か机上の空論過ぎる気がします。
いじめはダメと言いつつ、その発生メカニズムや対処法は社会全体で認識されていない気がするからです。
結果、標語や作文と言った上っ面だけをなぞり、無意識にある種の優等生像が形成されていきます。
まるで『いじめゼロ』というよりも
『波風ゼロ』
『問題児ゼロ』
な気がします。
しかし学生生活を送っていれば「バカ」の一言は絶対聞きます。
他者の行動全てを容認出来る人などいません。
要は、画一的な理想像やルールを持つことが問題だと思うのです。
何故なら学校生活には画一的な理想像やルールが求められるからです。
そして、そこからはみ出た者に対しては悪という認識が持たれます。
時々、「いじめられる側にも問題がある」という意見を耳にします。
中の人的には認められない考えですが、分析の価値はあります。
おそらくあれは「ルールからはみ出した者=悪」という根拠の元に成り立っているからではないでしょうか。
なのでいくら「いじめはカッコ悪い」と声を上げても響きません。
ではどうすればいいのでしょうか?
簡単に言うと、解釈の幅を広げるべきだと思います。
ある評価軸の上では同じでも、人によって全く違う捉え方をされることは多々あります。
例えばテストの点数。
同じ80点でも、英語の得意なA君にとってはスランプといえる結果かもしれませんし、逆に苦手なB君にとっては努力の賜物かもしれません。
その様な違いをどこまで認められるか、これは結構重要な気がします。
皆が皆、コミュニケーション能力に長けている必要はありません。
世の中には「クーデレ(クール+デレ)」好きな人は沢山います。
皆が皆、流行に乗る必要はありません。
そもそも流行自体、無から生み出されるのですから。
皆が皆、学校に居場所を求める必要はありません。
サードプレイスという概念を、学校生活に持ち込んでも良いと思います。
しかしご存知の通り、口下手は往々に「コミュ障」と笑われ、流行に乗り遅れればバカにされ、不登校になれば白い目で見られます。
何度も言いますが、画一的なルールや理想像が存在し、そこからはみ出ることが悪と見なされるからです。
そのような凝り固まったルールの中で、いじめゼロを掲げてもいじめはなくなりはしません。
ましていじめでなくとも、十代の多感な少年少女数十人をルールの下に縛りつけておけば、何かしら問題は発生します。
そういった問題が発生する(であろう)土壌の上に私達は存在することを認め、そこからいかに歩み寄れるかを意識することが大切な気がします。
現行の学校制度や生活様式をひっくりかえせ!とは言いません。
しかしその解釈を広げることは、悪いことでしょうか。