新版 『苦悩の存在論』 V・フランクル著 真行寺功翻訳 【一部抜書き】

V・フランクル氏は、ナチスの強制収容所を体験され、生き残った心理学者である。その言葉は、非常に重いものがある。その言葉を書き留めておきたい。


① 『わたしが成るところの人格性が「みずからを」形づくっていくのである。』

② 『わたしは実存するかぎり、常に神へ向かって実存する。』

③ 『良心は、超越[神]が告知のために現れる場である。』



新版 『苦悩の存在論』 V・フランクル著 真行寺功翻訳 新泉社 1998年

上記本からの一部抜書き


「人間」すなわち人格が、「自分から」すなわち性格から、なにかをつくるのである。そこで、「人間は性格を『もつ』が、人間は人格『である』というアラースの極り文句に関連づけて、「そして人格性に『なる』」と補足しよう。ひとりのひと「である」人格が、ひとりのひとが「もつ」性格と折り合いながら、そして人格が性格にたいして態度を決めながら、人格は性格ならびに自分自身をたえず改造し、人格性へと「なる」。このことはまったく、わたしであるところのものに適ってわたしが行動するだけでなく、またわたしが行動する仕方にしたがって、わたしは成る、ということを意味するにほかならない。

 人間は「自分」を決断する。人間は、人間である決断する存在として、ただなにかを決断するのではなく、むしろまたそのつど自分自身を決断する。すべての決断は自己決断であり、自己決断は常に自己形成である。わたしが運命を形づくりつつ、わたしであるところの人格はわたしがもつ性格を形づくる。すなわち、わたしが成るところの人格性が「みずからを」形づくっていくのである。【P .109~110】

 わたしが実存するかぎり、わたしは精神的かつ道徳的に実存する。そして精神的かつ道徳的に実存するかぎり、わたしは意味と価値へ向かって実存する。意味と価値へ向かって実存するかぎり、価値においてわたし自身を必然的にしのぐなにかに向かって実存する。このなにかは、本来、わたし自身の存在より高い価値の序列に属している。いい換えると、もはやなにかではなく、だれかでなければならないなにか、すなわち人格――わたしの人格を超えたものとして、超人格であらねばならないなにかに向かって、わたしは実存する。ひとことでいえば、わたしは実存するかぎり、常に神へ向かって実存する。【P .182】

 十、[『人格についての十の命題』の十番目]最後に、人格は神の似姿[にすがた]として理解すべきである。人間は超越からのみ自分自身を理解する。人間が人間であるのは、自分を神の側から理解する程度に応じてであり、人間が人格であるのは、かれが超越の側から呼びだされ、それがかれのうちに響きわたる度合に応じてである。この超越からの呼びかけを人間は良心のうちにおいて聴き取る。良心は、超越が告知のために現れる場である。【P .222】


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