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はつゆきさくら(2周目)超ざっくり感想

この春、僕がはつゆきさくらを初めてプレイした高校卒業直後から3年、すなわち1095日(閏年を考えないとする)を迎えた。
それに当たり、我が人生の作品のひとつであるこの作品を再走した。

今回は2周目となるので、3年前の記憶を引っ張りつ出しつつ細かな部分の謎に対しての検証を行い、大量のメモを取りながらプレイした。それによって作品への理解がより深まったと思っている。

なので、それらを参照してしっかりとした感想を書きたい気持ちもあるが、直後の読後感でひとまずメモしておきたいので、ここに記すこととした。
従って細かな部分に誤りがある可能性があるがご了承願いたい。また、もちろん当作品の重大なネタバレを含んでいるためご注意ください。

さて、この作品のメインテーマのひとつとして「復讐」が挙げられることは間違いないと思われるが、復讐はこの手の作品の題材として比較的よく見られるものだと思う。

そして、それらの多くは「亡くなった人はそんなことを望んでいない」といった論調などによる復讐の否定が大筋となっているように思う。

この作品にも、復讐の否定が存在する。
しかし、この作品においては、復讐の否定は周囲の人間による「亡くなった人はそんなことを望んでいない」的な説得により為されるのとは少しだけ違う。

この作品では、「復讐」の対比として「卒業」というキーワードがあり、結局は卒業か復讐か、という選択がこの物語の核となっている。
この物語には「卒業」という漠然とした区切りに対して、
「しかしそれには重要な役割が存在するのだ」
という主張があって、それによって卒業が肯定されている。
この作品には卒業に関する素晴らしい台詞や文章が多数存在していて、これもこの物語のメインテーマのひとつだと思う。
実際、僕が3年前、高校を卒業した直後にこの作品をプレイした時は、自分の卒業を肯定されたように感じ、この作品に次への後押しをされた気分になった。そのため、僕個人としてもこの主張ははつゆきさくらの重要な要素となっている。
そして、GraduationのTRUEエンドは、上記のように「卒業」を肯定し、それにより「復讐」を諦めた。そして初雪は”春”へ至り、卒業を果たすのだ。
ランとの約束である卒業を肯定すること、また初雪たちより外のもっと大きな流れ、宮棟やコノハサクヤ等の行動により復讐が阻止されたことによって、GraduationのTRUEにおいては復讐の否定となった。

また、この作品では、卒業と復讐という対比に加え、「生者」と「死者」という対比も存在し、似たような役割を果たしている。

【初雪】
「あんたは死んだんだ」
「いくら生者の脚を引っ張っても、あんたは、蘇ることは出来ないのに」

(あずま夜ルート)

このように、初雪はルートによっては死者による生者への干渉、つまり復讐を否定している。(死者の生者への干渉についての言及は他にもあった気がするが割愛)
これもまた、作者の主張というメタ的視点から見た時に、復讐への否定として良いと思われる。

結局初雪本人は各ヒロインルートの最後では復讐を実行してしまったり、よくわからないまま消えてしまったりしているが、GraduationのTRUEがTRUEエンドなので(当たり前)作品としては復讐への否定が最終的な結論ではないだろうか。

しかし、この作品は、復讐に対して否定だけを主張しているとは思わない。

その最たる例が、Graduationから分岐する二つめの綾ルート(綾②とする)である。
このルートは、初雪は狂気の世界に留まり、綾は死んでしまうもそのままホテルホッシェンプロッツごと爆破炎上し、復讐を遂げる。明確に復讐を遂げたのはこのルートだけではないだろうか。
はつゆきさくらはもちろん初雪と桜の物語ではあるのだが、同時に個人的には初雪と綾の物語でもあると言えると思っている。
それは、他のヒロインがいずれも”最後の冬”からの関わり(桜は幼少期に会ってはいるものの思い出していないのでノーカウント)であるのに対し、その前年に綾①の物語があることからも言えると思う。
綾ルートは全ルートの根幹にあるわけである。
無論、綾は基本的にその事を忘れてしまっているわけだが、初雪は綾とのことを覚えたまま一年過ごしているのだ。

Graduationでは綾は記憶を取り戻した事で半ば狂気を帯びた存在となっており、TRUEでも綾②でも散々な言われようであるが、綾②ではそれを押し切り、初雪への気持ちを曲げずに時間を稼ぎ切る。

「死ねば救われるか!?人の苦悩も、愛も、そんなに簡単なものだというのなら!」
「やってみろよっ」

この後綾は死んでしまう訳だが、綾としての気持ちは報われたのではないだろうか。
はつゆきさくらを「初雪と綾のための物語」と考えた時に美しいのはこちらのエンドだろう。
少し話が逸れてしまったが、個人的な主張として綾②が重要なエンドというだけではなく、そもそもTRUEに至るために用意されたGraduationという章においてわざわざ分岐が用意されている所からも、このエンドも重要なメッセージであることは客観的に言えると思う。

【初雪】
「いつだって、誰にだって、狂気が存在するものだ」
「それを取り除いてしまったら、きっと、人の気持ちとか魂みたいなものは、成り立たないんじゃないか」
「お前と過ごした時間も」
「ランと過ごした時間も」
「桜と過ごした時間も」
「そこには全て狂気が介在していた。けど、だからこそ、かけがえのないものだった」
「だから…...俺は…...」
「例え、狂っているとしても、止まれない」
「復讐を果たせば….....っ。果たしさえすればっ」
「巡り会えると願って何が悪い。そうでなければ、それこそ、俺は生きてはいけない」

(Graduation)

このような台詞では、復讐と狂気、そしてその先にある観念の世界での邂逅を否定しない。
自暴自棄になって復讐に走っているだけではなく、それが狂気と理解した上で、それでも復讐に縋ろうとする。
これもまたはつゆきさくらの要素のひとつなのだと思う。

従って、はつゆきさくらは卒業の物語でもあり、復讐と狂気の物語でもある。

結局、「卒業」か「復讐」かという選択は、一応は「卒業」がTRUEとされているが、綾②がフィナーレ直前にわざわざ用意されているという事は、「卒業のみが完全に正しいとは言えない」というのが作品全体の主張ではないだろうか。それがこの作品の美しさを作っていると思う。

正解のない選択肢しか、僕に残されていないのだから——————

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