ショートショート『雪で煙る空』
波と波がぶつかりあって、真冬の海が、まるで鉄板のように硬く感じられた。
寂しくなると訪れる、生まれた土地の荒井浜。もし、今ここに香奈がいたらなにを話そうか。話すことはたくさんあるのに、会うといつもすっかり忘れてふざけたことばかり話してしまい、香奈の気分を悪くさせてしまうこともあったっけ。
そんな香奈とは別れてしまった。原因は今でもよくわからない。
突然、彼女から別れをきりだされたとき、理由を訊いても、なにも答えてくれなかったから。
波しぶきに目を細めながら荒れ狂う海をみていると、誰かがぼくの背中を軽く叩いた。振り返ると、二年前に別れた香奈が微笑みながら立っていた。
「香奈! ……、どうしてここに?」
「なんとなく、この海がみたくなってね。義幸、ちょっと海の近くまで散歩しようよ」
ぼくは小さく頷き、歩き出した。
空が雪の舞いで白く煙っていた。黙ったまま香奈と浜辺まで来たときだ。たくさんの雪が香奈のまわりに、小さな竜巻のように渦をつくりまとわりついてきた。
まるで香奈が雪を招いているかのように、香奈の帽子もコートも雪に包まれて、たちまち細めの雪だるまのようになってしまった。
「義幸にも逢えたし、これでやっとあっちの世界に逝くことができるよ」
「なに、どういうことなんだ?」
「私、不治の病だと知らされて、痩せ衰えていく私をみせたくなくて、義幸と別れたの……、うん。自分勝手でごめんなさい。でも今は後悔してるの。最後まで義幸に会っていればよかったって」
ぼくは思わず香奈に駆け寄ろうとしたが、積もった雪は走りにくく、なんども転げながら、倒れたまま、がむしゃらに香奈の近くににじり寄った。
倒れたまま香奈の顔を覗きこんだ。雪の渦のなかには、忘れもしない、忘れたくても忘れられない香奈の笑顔がそこにはあった。
「香奈ーっ! 会いたかったよ。いつもどこにいても香奈のこと、忘れたことなんてなかったよ!」
香奈の瞳から涙が一粒流れ、小さな氷の玉となってぼくの顔に滑り落ちた。冷たくはなかった。なぜかほんのりあたたかい氷の玉だった。
ぼくは立ち上がり香奈を強く抱きしめた。すると雪が水しぶきのように飛散して、香奈の姿がかき消えてしまった。
「香奈、香奈、香奈ーっ!」
「義男、ここよ」
香奈の声のするほうに目をやると、ぼくの頭のうえあたりに、香奈が微笑む顔がみえた。
「香奈……」
香奈の顔が悲しげに歪んだ。
「義幸。やっと会えたのに、もうお別れね。私だって死んだりしたくなかったよ。でも、仕方ないよ。さようなら、義幸、元気でね。ほんとうにありがとう」
香奈の姿がたくさんの雪に包まれてみえなくなっていく。そして少しづつ空のほうへと昇っていった。
「香奈、香奈、香奈ー、行くな、まだ行くなよ。まだたくさん話したいことがあるんだから」
空からたくさんの氷の玉が降ってきた。その氷の玉がぼくの顔にさわり溶けていくたびに、香奈との思い出がひとつふたつと思い出されていく。まるで、香奈との思い出が凍っていた塊が、優しく、はかなく、ときめきながら溶け出していくように。
「香奈ーっ!」
ぼくが香奈の名を叫ぶと、空から大きな雪の玉が降ってきた。道に落ちた雪の玉をひろい、思わず頬をつけてみた。なんとなく香奈の香りがした。
ぼくの胸の奥に沈む哀しみの氷の塊が、ほんの少しだけ溶けだして、ほんのり暖かくなった。
(fin)