ショートショート『忠犬ハチ公 都市伝説』
私は人から忠犬ハチ公と呼ばれている。だが、ただご主人さまに会いたかっただけなのだ。
ご主人とは一年と数ヶ月だったが、大好きだった。
あの日、いつもの渋谷駅に迎えに行ったが、ご主人は降りてこなかった。
それでも毎日渋谷駅に向かった。
ご主人が亡くなったことはわかった。
だから通夜と葬儀の間、一切、食事せず、ただ物置にこもって三日間、なにも口にしなかったのだ。そうしていたら、半透明のご主人があらわれて、食べないと死んでしまうよ。いつかかならずおまえを迎えにくるからと話してくれた。だから食べて、毎日、渋谷駅に向かった。
日本橋に行かされ、それから浅草に行ったが、渋谷駅に向かおうしたこともあった。
その後、渋谷に戻れたのだ。それからは毎日、渋谷駅に向かった。
ご主人に会いたいからだ。
最初は渋谷駅では邪魔者にされた。
怖い犬にからまれて耳にかみつけられて耳をケガもした。
それでも渋谷駅に向かった。だって、ご主人が迎えにくるといっていたから。
新聞の方が私のことを記事にしてから、私はかわいがられるようになった。
だけど、頭をなでてほしいのはご主人なのだ。
そして長い時が流れた。
体が大地に還っていったあとも、私は銅像になった。
私は銅像のなかに入った。
そして、ときおり銅像から抜け出て、渋谷駅に向かった。
二度ほど、銅像が動かされたことがあった。
そのたびに日本に不幸が襲ったという。
戻ってきた私の銅像に向かって、見知らぬ僧侶がそう話しかけていたのだ。
私は渋谷から離れるのは嫌だったが、ご主人のいたこの国を困らせるつもりはない。
その僧侶は、「おまえは上野の西郷さんのツンという犬と対で、狛犬のような存在なのだよ」と話していた。
ほんとうかどううかはわからないけど、私はただこの場所にいてご主人を迎えたいのだ。
そしてまた長いときが流れた。
私はまだなにかを待っていた。
いつまにか、なにを待っているのかわからなくなっていた。
ときおり雀やほかの鳥たちは私の肩にとまり、渋谷のようすを教えてくれる。
神宮前には、二百数十体の石仏があるという。私は手をあわせることはできないが、ご主人のことを今も思い、供養している。祥雲寺境内には鼠塚があるという。なんでも、東京に伝染病が流行して、鼠が原因だとされて大量に殺された、その慰霊碑だそうだ。昔の人は鼠のことまで思いやれる心を持っていたようだ。
私はもう、なにを待っているのか、ただここにいるのかさえわからなくなっていた。
そんなある夜。昔ながらの帽子をかぶり、スーツを着たご主人が私のまえに立ったのだ。
私は思い出した。そうなのだ。私はご主人を迎えるために今日までここで待っていたのだ。
いままでの日々のことが一瞬にして蘇ってきた。
私は吠えた。久しぶりに歓喜の鳴き声をくりかえした。
そうだ。私はご主人が迎えにくるのを待っていたのだ。
ご主人は笑みを浮かべて、私の体を抱きしめて、私の頭をなでて語りかけた。
「ハチ、お疲れさま。遅くなって悪かったね。神さまから、おまえと暮らす許しを得るのに時間がかかってしまってね。おまえにわかってもらえるかどうかはわからないが、あの世は人間とおまえたちはちがう世界になるのだよ。だから、あの世の入り口のまえで、神さまはおまえを人間にしてから、あの世に入れてくださるのだよ。さあ、ハチ、一緒に逝こう」
私はご主人にじゃれつきながら、一緒に天に昇っていった。
(fin)
トップ画像のクリエイターさまは『ほっしー@メンタルタップ代表』さま。
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