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ショートショート『悪因縁』

俺はある霊場で、自分にからみついている悪因縁を断ち切らんと修行を重ねていた。どどうっと叩き落ちてくるような滝の水圧は、俺の肌までねこそぎ取り去っていくような力を持っていた。

しかし俺はひるむことなく滝に打たれ続けたのだ。なぜなら、俺はなんとしてもこの悪因縁を断ち切らねばならないのだから。

俺が幼いとき両親は離婚し、俺をひきとった母も俺を捨ててどこかの男と出ていった。血と汗の努力でやっと本屋を開店させたのに、それも火災で焼失してしまった。妻のやつは浮気をしたあげく、この俺を保険金殺人しようと企てやがった。ネットとやらで毒薬を手に入れたらしい。

俺はなんとか瀕死の状態で外へ逃げ、病院にかつぎこまれた。俺はその後、宗教の本をむさぼり読み強く深く確信した。そうなんだ、俺には悪因縁がへばりついてる、悪因縁さえ断ちきれば幸せな人生になるのだと。

目はかすれ、体はやせ細っていった。食事もほとんどとらず、黙想と滝に打たれ続ける日々。眼下には黒々とした隈ができ、四十代のはずだった俺は、まるで老人のようだった。

その霊場で修行する人のなかには、俺の修行をとめようとする者もあったが、俺は一切耳を貸すこともなく、反対に邪魔するなと怒鳴ってやっていた。やがてもうろうとした俺の視野に空から羽をはやした者がみえてきたのだ。

「おおっ、天使だ! いや天女さまであろうか、いずれにせよ俺は救われるのだ」

羽をはやしたその者が俺の手をとったとき、俺の意識は遠ざかっていった。

なにやら真っ暗な世界にいたような夢をみていたようだった。突然気が遠くなりそのまま気を失ってしまっていたようだ。

しかし、気を失うまえの天使の姿は決して夢や幻ではない。鮮明に天使の羽を覚えているのだから。俺はさっそうと街へとくりだした。心なしか体が軽く感じられる。そうだ、もう怖いものなどなにもないのだ。悪いやつらとも縁が切れ、これからは善人とばかりと仲良くできるし、金運もあがるにちがいない。

しかし、どうしたことだろう。友人や知人に声をかけても誰も答えようとしてくれない。俺は決して死んだわけではない。俺の姿は元の自分となにひとつ代わってはいない。それなのに誰も俺に視線をあわせない。まるでこの世界に俺などいないかのように。それとも俺は誰にもみえないのだろうか? 

試しに俺の体に手を入れてみた。俺の、俺の手がなんの抵抗もなく入ってゆく! なんということだ。俺はこれといった幸せな出来事を経験することもなく死んでしまったというのか。

「天使よ、俺は死など望んでいなかった。ただ自分の悪因縁を断ち切りたかっただけなんだ」

俺は空に向かって叫んでみた。すると大地のなかからその天使はタケノコが生えてくるように実体化していった。そして、

「おまえの望みはかなえられたのだ。おまえには悪因縁という縁しかなかった。それゆえに私が悪因縁を断ち切ったとき、おまえの生も断ち切られたのだ。これからは地獄で私とともに住むことになるのだ」

と、ニヤリと笑いながら言った。

「地獄だって?」

男はその者を思わずみつめた。よくみるとその者には蛇のような尻尾もあった。羽にみえたものは巨大な二本の角だったのだ。

「あんた……悪魔か?」

そいつはただいやらしい笑みを浮かべているだけだった。

「ああ、これこそ正真正銘の悪因縁だ……」 

男は、透き通る自分の手のひらをみつめながらつぶやいた。

            (fin)


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星谷光洋
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