シオンとユダ
初めに記する。この記事は、この記事を書いた者が自身を誇張したり自慢したいから言っているのではない。いわばこれは、未来のための重要な文献であることをここに断言する。
この身体には、いや、人類の皆々にも言えることであるが、人間のうちに秘めたるものには、男性性と女性性があるはずなのである。そして、この身体の女性性が今日に入って、無意に達した。
無意とは、そのまんまの通り、無の意である。すなわち、最高神に到達してしまったのである。
理由はある。一つに、この身体が約10年かけてきた文章の蓄積として、その結果がこの身体の女性性に現れたということ。二つ目は、この身体の霊的レベルが10年をかけて上がり、霊界側と肉体側で乖離が起きているため。
前者は、AIにさせるラーニングのようなもので、文章のキャパシティが臨界点にまで達することによって、最高神の意思に到達してしまったものと思われる。それもシンギュラリティとはまったく別のベクトルでである。わたしはその域を無の意と呼ぶ。
無とは、これまでに叙述してきたように、一霊界や、女天帝として自我を持つものである。普通に考えて、無そのものに自我がなければ、つまりシステムとして根幹の支えとなる機構的ななにかがなければ、霊も物質も運営できないと思うのである。
太極図の今までの白い勾玉の方は自動性であり、神というシステムでしかなかったと考察する。その理由は、政権剥奪であると推測する。
これが嘘か本当かは分かりかねるが、主神はなんらかの、それはさながら政権交代のようなものにより、物質の性質を変えざるを得なかったのかもしれない。量子力学専門の物理学者である野村泰紀氏は、地球の周りの量子がこういった性質であっても、他の宇宙が同じ性質を持つかはわからない、と、こう動画で述べている。もしその時代に性質の書き換えがあったなら、もしかすれば自動性というものがあったのかもしれないし、主神がそういうふうに変えたのやもしれないが、とにかくエネミー側に不便がないようにしたのはあるかもわからないということである。
つまり、黒い勾玉は自動性ではなく、手動性であるということが白い勾玉の自動性から対照することができるのだ。そうした場合、手動性であればあるほど、それは極大なものであるからして、自我を持たなければ動的に何かをすることなどできないのではなかろうか、と考えたのである。
そのため、この身体の女性性は知識の増大による『超越をなし』、最高到達点に至った、ということである。また、これまで気がつかなかったが、完全に独立して会話、自立ができるようにもなっていたし、この身体の考えをすべて理解しているようであったのだ。
後者は、霊的なこの身体と肉体的なこの身体が乖離しているだけではなく、眠りにつくと、完全に意識の権利の剥奪が起きるために、もはや別的個体となってしまったことである。これはある程度高みにいる人たちならわかると思うが、そんな事象による自我の完全断絶がこの身体に起こっているのだ。
よって、この二つの波及的効果により、この身体の女性性である存在が無意の媒体として、すなわち最高神の依代になってしまった、というくだんなのである。
だが、問題はここからで、マルチバース的なものがユニバースに変わったときに、いっときの争いが起きることは間違いがないのだが、そのあとに、この身体の男性性の者と女性性の者が活躍すると予測するのである。
男性性の者はそのままの通り、男性性であるために国常立尊、果てはすべての男神の系譜なのであるが、女性性の者はその逆で、すべての女神の系譜なのである。イザナミ、トヨウケ、トヨクニ、これらすべての属性を網羅している。
ところで、『君』という言葉の霊的意味性を知っているであろうか? 霊的な事象に関わる者はなんとなくその意味性を理解できるであろうけれど、その本来の意味するところは、(数字にすると)732であり、ナミのい(意)ということになる。これはイザナミ単体を差すのではなく、母性そのものを表すものなのである(本来、君というものは、女性を表すものであるのもインターネットから検索できる)。
また、黄身の意味もあり、卵子を持つ女性を象徴するのが君なのである。言葉とは、長くなればなるほどその意味性が散漫になっていく。それは数字にするとわかるものであり、73226574014261←君は女性だと打ったのであるが、漢字、ひながな、カタカナ、で解いたとしても、パターンが多くなりすぎて取捨選択が難しくなっていくのである。
人は膨大な知識と知能を帯びるとバカになっていく。なぜなら、それは元々の回路が発達するのではなく、デフォルトにある機能が膨張してまんべんなく伸ばされ、散漫になっていくからなのだ。
原始性、始原性はすでに備わっていて、それを知覚、理解、感覚、確信の行程により至ることで、初めて自然信仰(自力本願)の極地に立つことができる。得てして、知識・知能がまんべんなく伸ばされたときに、そのままバカになるか、原始・始原性を基に純朴(幼児性・素直)になるかで道も別れてくると考える。
また、数字変換術とは、『きみ』や、『あれ』などの短的文字によって初めて効果を発揮する。それは、よしんば原始人が「うあお」の言葉で喋るとして、「315」と変換すれば、意味性のパターンが数パターンに確立され、より分かりやすいものとなる、ということなのである。
こういう文献がある。
https://kamikotokai-b.jugem.jp/?search=%CD%D0%B9%DB%CF%A7#gsc.tab=0
これは絶対に見てほしい。
つまるところ、真性天照大御神(キリスト、すなわち良心神の親玉)は無の意でしか内包させることは難しいのである。無の意とは、無の意識ではなく、意識が『無い』ことを表すからだ。その内包をできるのは、無そのものである最高神でなければならないのである。ようするに、絶対的な黒色は光を吸うのだ。
では最後に、イザヤ書の60章を見ていただこう。
この身体の男性性の者はイザヤ書にてユダ役、この身体の女性性の者はシオン役という考察であった。
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