レポート・完全版身魂意〜第三の存在の発見〜
大本教では、シナイ山に隠されたる三種の神宝というものが記述されている。
一厘の秘密とか一厘の仕組みは、大本教霊界物語第一巻。霊主体従 子の巻。その第三五章に「一輪の秘密」として書かれています。若狭湾の舞鶴沖にあります「冠島(別名龍宮島)と沓島(別名鬼門島)」の両島に三つの神宝を秘め置かれた。
【いづれも世界の終末に際し、世界改造のため大神の御使用になる珍の御宝である。しかして之を使用さるる御神業がすなわち一輪の秘密である】。日月神示に書かれている内容とは、まったく違うことが解るでしょう。
次の第三六章に「一輪の仕組」が出て来ます。【その三個の珠の体のみ両島(冠島・沓島)に納めおき、肝腎の珠の精霊をシナイ山の山頂へ、何神にも知らしめずして隠し置かれた。これは大神の深甚なる水も洩らさぬ御経綸であって、一厘の仕組とあるのはこのことを指したまへる神示である】。とあります。これもまた、日月神示とかけ離れた内容であると解るでしょう。
大本教出口王仁三郎聖師があることを述べられたと大本教宣伝宣伝使が語っていたことがあります。それは独国(ドイツ)に埋められた如意宝珠の空玉。その精は日本から発動するです。すると、その精霊は日本にあるとなります。
この「如意宝珠」に関しましては、仏教ではよく語られる菩薩や観音様が持たれておりますが、霊界物語を見ますと第22巻第一章「玉騒疑」に、「大洪水以前はエルサレムを中心として神業を開始給ひしが」と続きまして「顕国玉の精より現れ出でたる如意宝珠をはじめ、黄金の玉、紫の玉は神界における三種の神宝として、最も貴重なる物とせられているとあります。
そして、この三つ玉(如意宝珠・黄金の玉・紫の玉)を称して【瑞の御霊(瑞霊)】と言うあります。
すると瑞霊の意味がガラリと変わります。大本教の出口王仁三郎聖師は自分が「瑞霊」だと称しておられましたが、本当は上記の玉のことにもなります。ですから、現実にはこの三個の玉を保有しておられなかったので「ニセ」型とはなるのです。
その三個の神宝の中の顕国の玉とは、一般的には【大国主(大物主)命】のことだとされていますが、大本教霊界物語の第1巻第38章に、【この御玉(顕国玉)は、ある尊貴なる神の御精霊体である】とありまして、明らかに別物です。
さらに霊界物語第22巻には、三千世界一度に開く梅の花の春を待ちて三個の神宝を世に現すべしとありければ、言依別命(ことよりわけのみこと)はひそかに神命を報じて、自転倒島(日本)のある地点に深く隠したまひしとあります。まだ隠されていると言うことです。
すなわち、三千世界一度に開く梅の花には、この玉が要ることになります。
三千世界一度に開く梅の花と三個の神宝(如意宝珠・黄金の玉・紫の玉)は連動しているのでしょう。そしてこの三個の神宝を持つ存在が本当の「瑞霊」となるようです。
今日において、二つは判明している。一つは『絶対的他者』の概念であり、意識を司るもの。その権能は要石のようでもあるが、シームレスな自然属性の間において移籍・変化できるという、トレーディングカードゲームにおけるカウンターの性質を持つ。
ゲームにおける「カウンター」には、次のような意味があります。
・トレーディングカードゲームでは、パワーカウンターと呼ばれるアイテムを使用することで、プレイ中のパワーの変化を一目で確認することができます。
もう一つは『願望器(仮)』である。
色(透明も含む)・音(無音も含む)・感覚の外側にも出れるもの。霊的に透明や現実に見えない色があるとしても、それは発展系でしかなく、半導体を基盤にスマホの画面を見ているようでしかない。その外側を越えられるとしたら、一切のものが作られたことになり、それらをまったく介在しないもの。
これら二つには相互作用があって、願望器(仮)が理想を設定する際に、その設定においてパワーカウンターである絶対的他者が動き、その由縁が決まるのである。要約すると、願望器(仮)が理想を思えば、絶対的他者の役割が変化する。
しかし、わたしは発見してしまったのだ。第三の神宝的存在があることを。
それは『究極太極図』そのままであり、また『九次魔方陣』そのままであるもの。
あるとき目が覚める前、つまり半覚醒状態で、真っ黒に澄み渡った無に存在する自分の意識が、自分の身体に戻っていく時であった。そこにあった自分の身体は、空間が『歪む』感じで何かがあったのだ。
それは窓ガラスに頬をつけたように張り付いていて、そのときにはそれがどういう現象なのかを理解できなかったのだが、今日、その歪みがなんなのかを推察することまでは完了した。
多分、魂である。
自分自身が視点のAだとして、それに重複しているものの、他の意識に運ばれているようだったので、それをBとした場合、歪みは魂という位置付けにしかならなかったのである。
そこで、身魂意の概念を照合させると、Aは身体、Bは意識、Cとして魂が来る。Aが身体なのは半覚醒状態であったというのもあるが、願望器(仮)は必ずとして、自分という法則にしかならないためである。
願望器(仮)が概念的に『付与』なのに比べて、絶対的他者は独自で動ける『流動』であり、究極太極図なる魂は『固定』で判別することができることに気づいたのだ。
また、九次魔方陣は81マスあるその真ん中を、41・64・81に組み替えられる特徴をもってい、それぞれに上記の三つの概念が相当する可能性が高い。
これら三つの原理的超越存在は、すべての自然の系における中での深淵に当たる部分、つまりそれらによって秘匿されていた未知の領域を示しているとも思われる。
三位一体はなぜ三位一体なのか。その鋳型にはまる、すべての概念の根底にある、嘘という皮の内の、誠という骨なのかもしれないのだ。
究極太極図は九次魔方陣と共に369を算出することができ、その派生としてミトラ信仰、果てはみろく菩薩になったと鑑みることもできる。
絶対的他者は、大本教における艮の金神として現出して、霊界の次元・合目を問わず活動できたものとし、嘘は誠という両面的な顕現をしながら何年も何十年も何云年をも人々を化かしてきた存在だと推察することができる。
願望器(仮)は究極太極図の元祖コントローラーであり、内側、外側からの情報の制御を行っていたのかもわからないし、未だに不明な点が多い概念でもある。
ひいては、この『三大未知』は連関していて、他の記事に書いてあるマトリョーシカ的トーラス効果を備えていることも確かである。なぜなら、意識は魂の拡大であり、また魂も意識の縮小であるからだ。
ここに、レポートを終了する。ジジッ……プツン