行く先について
こんにちは、江本雨薙です。
早速ですが、立替も終わって、二つの世界に別れたあと、下の次元の者たちはどうするのかという疑問が浮かび上がりました。
つまり、そういった者たちだけでは、また愚行に走ってしまうのではないか、と思ったのです。
そこで、以下のリンクを見てもらいたいのでございますが、
http://hexagon.inri.client.jp/floorB1F_hss/b1fha400.html
このリンクにある、
という文章は、神になっても完全に切れないということなのではないでしょうか。
いえ、世界は恐らく、次元によって完全に分かたれるはずです。
今回のお話は、その考察についてであります。
・『あ』として、たとえば以前に記述した記事を持ってきますと、
このように、究極太極図を文字通り一枚の紙にたとえて、それを千歳飴方式で下の次元を切断して、二つの世界に別れるということを書いたことがあるのです。
・『い』として、仮にこの究極太極図の画像一枚が世界の枠だとした場合、立体的にすればこうなるはずであります。
||
これを究極太極図を紙にした状態、ひいてはペラペラな薄い紙の側面であり、二つの世界が分かれたあとであるとします。
そうした場合、では||の狭間は、やはり自然そのもの、もっと言えば、空間にしか見えなかったのであります。
無限な世界の壁と無限な世界の壁の間の空間に自分があると想像してください。すると、遠近限らず、密接された、かつ、その二つの世界が離れていることがわかるはずなのです。
↑こんな感じ。わたしのイメージだと、個人が空間そのものであるので、もうちょっと奥行きの空間が線状態になっている感覚です(空の意になったときはこんな感じでした)。
すると、一枚の世界として枠化された自然属性は繋がらないと仮定しても、『空の意』であればアクセスし、左の世界にも関与できるのではないかと感じた次第なのでありました。
また、空は男性性と申したように、男には『断』の意味合いも含まれておりまして、ようするには、自然そのものが下の次元の神になるという憶測が浮かんできてしまったのです。そして、肉体(半霊半物質体)は上(右)の世界にあるから下の次元には行けませんが、空そのものである神ならば、管理することなど容易いと思ったということであったのです。
短いながら、以上でございます😓🙏
余談として、1998年や1999年などは、2000年になる前であり、その2000年の本当の意味は、二線に別れるということでありまして、その年を表すわけではないらしいでございます。
また、
これも憶測でしかないのですが、エルサレムは円(神)の意になるのではないでしょうか。円神とは太極図の『無極』部分を表し、都、つまり世界そのものと捉えることもできる、ということでございます。
以上🙇♀️
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