自分的おさらい
基本的に、わたしは神と主を混同していない。エロヒムがなぜ複数形なのか、手っ取り早く言えば、太極図全体を神といい、その中のバラつきをグノーシスで『オグドアス』とか言ったりするのだと考えている。そこで、江本雨薙なりに解釈をしてみたいと思う。
1・初発、天御中主神、高産巣日神、神産巣日神。
この三神が最初にあったのだろう。裏(虚無)の神である神産巣日神と、仮想(霊)である高産巣日神があり、その真ん中に一本の透明な線(空間)である天御中主神が存在し(これらはすべて自然であり、アニミズムの根幹はここが最初だったのだとも思う)、それが無限に広がっていたものと推測する。
また、グノーシスのプロパトール、ビュトス、プロアルケーという概念もこれにあたると考える。日本神話における造化三神である。
2・神。
ここで言う神とは、宇宙創世のベースとなった、『円』という名の透明な御国である神を指す。恐らく、この丸い円ができたことにより、宇宙というものが発展していったらしい。この対極図になる前の『円』は縦線(スリット)のある中央に設置し、半分が表で、半分が裏になったのではないだろうか。
この円を法則そのものだと、反芻した結果思い至った。また、なぜ、表の神と裏の神、空間の神を無限で表せるのかというと、わたしは観測者と線によってであると考えている。
円は丸型なので、その時点では遠めに見ても近くで見てもただの円である(ただし拡大化しすぎると、その円という世界に観測者が入っていくと感ずる)。しかし、格好づける『枠』がないと、観測者次第で永遠に遠退いていけるのだ。つまり、枠がないことで場の物量・面積が観測者によって大きくなったり小さくなったりする、ということ。
ここでは、神=法則(円)とする。
3・主。
キリスト教では、しばしば『雲』を神の現出と捉えるふしがある。ユダの福音書において、陰陽の満ち欠けが、雲(神)から自ら生まれた者へと派生している。わたしはその雲(神)を『主』と言っている。あるいは、透明な御国(宇宙のベースとなる第一の神)から雲が出現したために、第二の神、とでも読んだ方がいいのだろうか。
大本教では、ひふみが説かれた。ひは霊を表し、ふは吹く力を表し、そしてみは体を表すという。それを、ひを『みろく大神』、ふを『大国常立尊』、みを『豊雲野尊』という神名で呼称したわけだ。そして、これは『マトリョーシカ的雛形』へと繋がる概念なのである。
これを三位一体にあてがうと、空間の神(ひ)、表の神(ふ)、裏の神(み)ということになる。そしてこれはマトリョーシカのように次世代へと受け継がれていったようなのである。
ひいては、図式すると――ひ(透明な御国)、ふ(雲)、み(自ら生まれた者)となるわけだ。
4・自ら生まれた者。
またの名を、第三の神。雲(主)であったときは、陰陽が結合していたと考える。それがまさしく『自ら生まれ』、雲の顕現として陰陽に分かれたとする。よって、どちらも同じ神であり、その神名を『豊雲野尊』という。また、豊雲野尊の自ら生まれた者の方を、恐らく『大国常立尊』という。
しかし、ここで訝しむべきは、ふ、と、み、が逆転しているところであろう。だが、力を吹いたのが陰陽一体になっていた雲であることを考えると、力を吹かせた体が必要になる。すなわち、力を吹いて自ら生まれた者のあとに残った虚無が豊雲野尊だと言え、したがって、ひ(透明な御国、円性、法則)、ふ(自ら生まれた者、霊、大国常立尊)、み(豊雲野尊、雲の跡形、虚)となるのだ。
円の神、霊の神、虚の神の誕生である。円の神を円と神で『エンジン』と覚えておくといい。
5・イザナギ、イザナミ。
天御中主神(スリット線的空間(|)が円と交わったことにより、透明な御国にも空間ができたと思われる。それをイザナギという。大本で説かれた日の出の神である。
霊の神が虚の神と陰と陽で分かれたときにできたこの波状の形(~)を、イザナミというのだろう。実体験ではあるが、裏を見たとき、聞こえてもいないのに音がし、見てもいないのに風(空間)があった。そこから想起したことである。そして、その基を白山菊理姫と称すのかもしれない。
神は言葉と共にあった、も雛形的に次世代へと受け継がれていったと考える方がいい。ギリシャ神話的に言えば、黄金の時代から、白銀、青銅、英雄の時代、そして現代にまで続く鉄の時代がある、という説をとるのであれば、それも納得はできると思う。
よしんば、透明な御国があるのはいい、がしかし、ではどのように動き、どのような働きがあったのか、という問題がある。そこには、『言葉』があったのではないか、という風にわたしは捉えている。また、エロヒムが複数形であるように、神も男女性があるようにしか考えられないのだ。
なにより、言葉は波と空間を伴うからである。その派生系として、日本神話において、イザナギとイザナミの間をとりもった白山菊理姫というものを、比喩的に描いたのではないだろうか。
6・それ、国常立尊。
それは中央性であり、マトリョーシカ的雛形の全体と無限を司っている。全体を中央である真ん中に集めることによって、太極図のすべての力が宿っていると推測する。しかし、その体は全体がゆえに中央には『ない』。
この、それの概念は、全人類の不変性にも通じていて、たとえて、一人の観測者がいるとする。その観測者が自分の小宇宙を見れるとする。その小宇宙を太極図で表すとする。したがって、小宇宙にズームイン(小宇宙の拡大化)していくと、また、宇宙の、地球の、何々国の何々州の何々村の自分、というようなふうに、自分に戻り、それを何周してもマトリョーシカ的に無限に自分に戻るだけ、という性質である。この概念が『それ』に宿っている、という理論に至った。
では、なぜ国常立尊を大本教において創造神としたのか。創造神であるならば、前述の造化三神や円の神、霊の神、虚の神でもよかったではないか、となる。それはつまり、太極図の全体性であるからではないか、と感じた次第なのだ。
7・やの身魂。豊国姫。そしてスサノオ。
大本教で、初めて世に出された神名の神がいた。豊国姫である。なんでも豊国姫は、スサノオの母であり、月の神とされた経緯がある。その極大化されたものが豊雲野尊である。事実、豊雲野尊やその別名である豊国主という名前は各神社に存在するが、豊国姫という名前の御祭神や氏神は当時存在していなかったらしい。
太極図の位置は、白い勾玉(霊の神)の黒い穴の部分である。性質は虚であるが、影や闇の属性も含まれる。宇宙創世時は陰陽の位置が左右逆であったのかもしれない。主とは主人の意味もある。大本教では、『主の神は35万年前に引退』としている。わたしはこう考えていた――イザナギ(空間)とは境界線であり、裏に向かうことによって、すなわち、その太極図の模様の位置によって、さまざまな時代背景があったのではないかと。主の神が引退してから紆余曲折があり、現在の究極太極図の形になったのではなかろうか。
すなわち、最後の神とは、霊の神が境界線を越えて、虚の神が生れることなのではないのだろうか。そこには未だ解明されていない重力子(グラビトン)や虚無が深く関わってくるとも考えている。
なにより、かの眠れる予言者、エドガーケイシーなどもこう述べている――曰く、『神が去ってしまうかのように見えたときに、主なる神がやってくる』と。
少し話がそれてしまったが、やの身魂は裏にいれば虚無に、表にでれば影や闇となる可能性が高い。思うに、影や闇は虚や無の現れなのではないだろうか。文字、カルマ、グラビトン、ブラックホール、ヒッグス場(泥属性における混沌の無)、これらに関係する、あるいは想起せざるを得ない事柄は、黒色である。だからこそわたしは言うのである。主とはすべての黒色を操るものではないのかと。またの名を、最後の神、と。希望的観測にすぎないが。
また、やの身魂には空間が携わっていると思われる。その空間はイザナギと同じ空間という自然属性なので繋がってはいるが、その息子格なのでスサノオという。それは核(穴)で女性性を表し、イザナギは縦棒(男根)で男性性を表す。まるで古来中国の、漢字の象形文字のようである。
8・シオン。初めてのアイオーンの現出。
シオンとは、単一性である。さらに言えば、時間を表している。アラーの99の美名をご存知であろうか。その99番目の意味は、『永遠』である。
シオンとアイオーンは言霊的に似すぎている。シオン=12581、アイオーン=125581、である。この類似性に注目した。
そして、プラトンによれば――アイオーンは『永遠』の意味があるらしい。ともすれば、99には白の意味も含まれる。そう、シオンとは、豊受姫を表すことに気がついたのだ。
その性質は意識、あるいは意というものである。また、『それ』をさらに意識として凝縮させた形が、この始まりのアイオーン(シオン)なのだ。逆説的に言えば、グノーシス派の諸々の書の中で言うアイオーンとは、アイオーン(シオン)から派生した、意識(アイオーン)ということになる。つまり、すべての意識は始まりの意識と繋がっている、と。これがアカシックレコードの正体かもしれない。
9・わの身魂、キリスト、アマテラス、己の内在神(良心神)。
黒い勾玉の白い丸の部分を指す。人間の良心を司り、常にドライブレコーダーのように個々人のやったこと、したことを記録し、死後にその諸々をまざまざと見せられる、というもの。
それが本当にそれだったのかは定かではないが、わたしは裏で良心神を見たことがある。ただ、それは――雪のようであったのだ。あまりに、光りが薄かった。
そこで、考えてみたのだ。この雪弁が表に出たとき、どうなるのかと。先述の主の神が、35万年の時間を経て帰還したあと、必ずこの良心の根源は太極図の回転的に出現するであろう。そのときには、舞台は裏ではなく表である。あまり書きたくはないため、ヒントを記すことにする。キーワードは、アガペー、天照、そして181。また、ユダの福音書において『セツ』をキリストと呼ばれるものにしたのは、雪――と掛けたからではではないのか、という飛躍的な説である。実際、ヘブライ語と日本語は似ているところがあるらしい。
しかし――最近、行者の間では、この良心神が消えている魂を続出して見た、というのだ。
そこで、わたしはこう考える――未来的に、数十年、あるいは数百年後かに、事実改変前の原初から今までの記録を開き、まさに「この紋所が目には入らぬか」をやるのかもしれない、と。
かつては、ナザレのイエス、釈迦、もしくは数多いる偉人賢人たちがその力を大いに使ったのだろう――けれど、彼ら彼女らの内在神は、すでに裏へと昇ったのだとも言える。良心神はその役目を終えると、自らの親へと戻る性質があるらしい。
インドのヴェーダ典には、こうある。「人の中に眠るコブラ(眼鏡)蛇が目覚めて走り上がる時、その人は真理に目覚める」。これはWHOのロゴにもなっている。真理に目覚めた者は、必ず良心を宿すのだ。
10・余談。
これら太極図内外の超自然的な神々を総じて『神』、と、この江本雨薙はいうが、基本、神は円性である透明な御国を指し、その意識=魂を持つ――かもしれないナザレのイエスが神の子であるとする。……のではあるが、一つ、疑念がある。なぜ古典心霊学の古代霊たちは、一貫してイエスを『イエス・キリスト』と呼ばずに、『ナザレのイエス』と呼んだのか。もしイエスが神の子であると同時に、人間の子であるとしたのなら、もしかしたら、イエスとキリストは別の存在と考えていた、あるいはそういう事実が当時の霊界にはあったからなのではないかと思った。良心神が死後に自分の親の元へと戻るということが事実なのであれば、当時はイエス・キリストであったが、今はナザレのイエスとキリストに分かれていると言えよう。いや、あるいは、古代の偉人賢人たちも、そうなのかもしれない――――。
To be continued…