孤独の吸血姫:~第三幕~醒める夢 Chapter.8
「クッ! 吸血姫共め!」
敗走の呪詛を込め、魔女は忌々しさを咬む。
空間転移魔法による逃亡を選択するしかなかった。
テムズ川へと墜とされたのは不幸中の幸いか。黒く淀む川面のおかげで、誰にも気取られる事無く脱出できたのだから。
手近な屍兵を数体だけ巻き込み、魔女は転移呪文を実行した。無事にイングランドを抜け出すまでは護衛が欲しい。
況してや、シティ外にはデッドがいる。万全な状態ならば敵ではないが、疲弊した身では排斥の自信が無い。
魔女が転移したのは、防壁を越えたシティ外──非管理地区だ。
反乱の暗躍者は、隔離された戦火を睨み据える。
「まだ死ぬわけにはいかぬ! 総ては復讐のためだ! 歴史に虐げてきた〈人間〉達に! 半端な魔性と蔑んできた〈怪物〉達に!」
徘徊する喰屍達が獲物を察知して近付いて来た。
「やはり数は多いな……頭を狙って排除しろ。私に近付けるな」
命令を受け、死体が死体を殺し出す。手にした鉄パイプや引き千切った死体の腕を武器に、ゾンビはデッドを破壊し続けた。
屍のバリケードを傍観し、取り敢えずは身の安全を確信する。
と、徐に魔女は黒月を怯え仰いだ。
その巨眼へと畏敬を込めて懇願する。
「我が主よ! 我が契約悪魔〝バロン〟よ! いま一度チャンスを! 強大な魔力さえ与えて下されば、更なる混沌を御約束致します! 何卒、あの〈吸血姫〉共を屠れるだけの魔力を!」
「ィェッヘッヘッ……くれるワケねぇだろ」
聞き覚えのある濁声にギョッとした。
嫌悪感を誘発する気配を探して、一角を睨めつける。
やがて細道の暗がりから歩み出て来たのは、予想通りの卑俗──ゲデとかいう死神だ。
「ま、正しくは『与えたくとも与えられねぇ』ってトコだな。テメェとお嬢じゃ、根本的に魔力底値が違い過ぎる。下駄を履かせるにも限度があらぁな」
「黙れ! たかが原始的宗教の死神風情が! あの御方に不可能など無い! あの御方は──」
「あぁ、よぉ~く知ってるぜ? 同業者さんよォ?」
「な……何?」
思いも掛けぬ呼び方に動揺する。
「オレもアイツに従う者さ。混沌の御膳立てをして、負念を生み出す──ソイツが〝御主人様〟の糧ってワケだ。そうして、より強大になる。強大になれば闇暦世界の超自然的摂理は、ますます根深くなる──よくできた負の還元だよ」
言い回しからして間違いない。
この死神もまた〈黒月の使徒〉だ。
何らかの契約関係にあって従う者だ。
「何故だ? 何故、キサマような下衆が、我と同じ立場に!」
腹立たしい屈辱感と納得出来ない動揺が、等しく魔女を支配する。
恨みがましい凝視を余所に、ゲデは太々しく葉巻の紫煙を吐いた。
「ィェッヘッヘッ……オレにとっちゃあ、どうでもいい事さ。ま、取り敢えずアンタはミスを犯したんでな。その御報告に来てやったってワケさ」
「ミスだと?」
「まず〝カリナ・ノヴェール〟を巻き込んだ事。お嬢の機嫌を損ねて、無事に済むはずがねぇやな──オレ以外は。ィェッヘッヘッ……」
手近な瓦礫に腰掛け、葉巻を蒸かす。
「次に、あの黒月を過大評価していた事。オマエさん、根拠無く心酔し過ぎだぜ?」
「根拠無き心酔……だと?」言葉の端を拾い、ドロテアは自身の優位性を取り戻した。「クックックッ……盲目の愚者が! やはりキサマと我は違う! あの御方と我は旧暦時代から固い絆で結ばれた契約関係! 裏切られる事など無──」
「ィェッヘッヘッ……エリザベート・バートリーも同じ考え方だったなぁ? やっぱ主従は似るのかねぇ?」
「ふざけるな! 我とエリザベートでは──」
「捨て駒の末路なんて、どうでもいい些事なんだよ。テメェが〝利用する側〟だったんだから、当然解んだろ? ィェッヘッヘッ……」
「なっ?」
「ィェッヘッヘッ……どうしたよ? 魂が動揺してやがるぜ?」
「ち……違う……我は……私は……?」
ドロテアを懐疑心が蝕んだ。
ゲデの値踏みは絶対的な確信に満ちている。
故に信条の根本が揺らぎを覚えるのだ。
(認める必要はない! こんな下衆の戯言に耳を貸す必要などない!)
そう自分に言い聞かせても、完全否定が出来ない。
狂信的な心酔は、一転して得体知れぬ不安へと変わる。
均衡を崩しそうな心を愉快に眺め、ゲデは満足な一服を深く吐いた。
「そして、最後のミスは──オレの前で〈ゾンビ〉なんかを使っちまった事だよ……ィェッヘッヘッ」
銜え葉巻に指をパチンと鳴らす。
途端、取り巻くゾンビ達が脱力に崩れ倒れた!
まるで糸を断たれたマリオネットのように!
「こ……これは!」
「ゾンビは元々〈ブードゥー秘術〉だ。オレが自由に出来ねぇ道理は無ぇよ」
「な……何故だ!」
「あん?」
「その能力があれば、いつでも戦況を一変させる事が出来たでは──」
「ああ、そりゃよ?」卑しき邪笑が歯を見せる。「沢山殺し合ってくれた方が、オレとしてもオイシイんでな……ィェッヘッヘッ」
闇の濃さが違う!
質が違う!
コイツの前では、カリナ・ノヴェールも、ジル・ド・レも、エリザベート・バートリーも、生温い仄暗さでしかない!
「さて、ボーナス問題だ。魔力支配を失ったゾンビは、単なる死体──じゃあ、次にどうなるかね?」
答えるまでもない!
防壁外には魔気が泥寧している!
此処〝フリート街通り〟とて、そうだ!
そして、ダークエーテルの干渉を受けた死体は──!
恐怖に捕らわれ、視界の隅を見遣る。
ゆっくりと起き上がる屍──忠実な衛兵だった肉体が、次々と再起動していた。
「く……来るな!」
緩慢な動きに距離を縮める捕食獣。
次の瞬間、飢餓に開かれた口腔が喉笛を噛み千切った!
「っひゅ!」
悲鳴が空気と漏れる!
魔女にとっては致命的な痛撃だ!
最早、呪文詠唱も叶わない!
街の至る所から、次々とデッド達が群がって来た!
死者の芋洗いが、鮮血塗れの魔女を呑み込む!
「ひゃ……ひゃへ……ひゃへほぉぉぁぁぁァグァヴゥアァァ……────」
絶望に足掻き伸ばした腕は、喰屍の底無し沼へと沈んでいった。
「地獄に連行される自滅ってか? 古臭ぇ怪奇小説かよ。ま、何にせよゴチソーサン……ィェッヘッヘッ」
懐から取り出した小瓶酒を呷る。
肴は戦乱の立役者が魅せた〈死〉だ──期待したよりは薄味だったが。
ふと黄色い単眼と目が合った。
「アンタも呼び名を統一してくれねぇか? やれ〈魔王〉だの〈妖怪球〉だの〈門の鍵〉だの……こっちも混乱していけねぇや。単なる〝ダークエーテルの塊〟に過ぎねえってのによォ」
ゲデが毒突いた通り、この〈黒月〉はダークエーテルの集合体であった。
同時に知性体であり、超強大な〈魔物〉でもある。
闇暦世界に蔓延するダークエーテル──なれば、その集合知性体は〈世界〉そのものと呼んでも過言ではない。
存在自体が〈秩序〉であり〈法則〉だ。
その支配力は、宛ら〈闇の神〉か。
口元の垂れ酒を拭うと、ゲデは興味醒めて歩き出した。
これ以上留まっても、戦乱鎮まったロンドンで利益は無い。
死神は新たな混乱を求め、街路の霧へと消えた。
食事処には困まらない。
闇暦世界の総てが、彼の遊戯場なのだから……。
神出鬼没で自由奔放な〈死〉への漫遊──それが彼に授けられた役得であった。