目立つことと心のうち
日本人社会に於いて目立つという事は、「羨望」よりも「嫉み」や「反感」を買い、いらぬ誹謗中傷や、いじめ、足を引っ張られる事に繋がるのではないか、という懸念がある。非常に残念な事だと思いながらも、否定はできない。
つい先日、女性4人のランチ会でSNSの自撮り写真についての話題になった。それはある主婦が加工自撮り写真や、ナイスバディっぷりを頻繁に投稿している事が、(悪い)噂になっているというものだった。その写真をスマホで見せられたが、私の知らない人だった事に心底ホッとした(笑)。
実は私も似たような投稿をしている。他人事ではない!何故そこまで悪く思われているのか、正直良くわからなかったが、その回答は「誰へのアピールなのか?」「それをネットに晒す目的がわからない」というものだった。
同じような自撮り組の私が想像するに、彼女は、自己承認欲求が強いのだろう。
承認欲求とは、他者から褒められ、認められることで、自分の価値を実感したいという心の状態。それによって自分を好きになろうとすることである。
少し思いあたり、耳が痛い。だが、承認欲求は悪いものではない。それは人が「食べたい・寝たい」という欲求と同じで、認められたい・褒められたいといった社会的欲求は、人間の進化の過程で自然に具わったもので、否定する必要はないのである。
所詮他人のする事、見たくなければ見なければ良いのに と思うが、
それが「不快感を与える」のだとしたら不本意ではあるなぁ…。
それに他者から承認されることに強くとらわれると、結局は他者の希望に沿った自分を演じることにもなりかねない。すなわちそれは他者の人生を生きることになるとも言える。
複雑な思いでランチのパンを頬張りながら話を聞いていた。
フロイト、ユングと並ぶ「心理学の三大巨頭」の一人、アルフレッド・アドラーの思想では、人は誰しも存在しているだけで誰かの役に立っていて、それを自らの主観で感じることができれば、他者からの「承認」は不要になり、他者の目を気にすることなく「自分の」人生を生きられようになると言っている。
自分の存在が、勇気や愛や、夢や希望を与えられる(主観でOK)
それは、完璧だからではなく、むしろ失敗談や弱みの中にあったりするのではないだろうか。
思えば失敗だらけの私の人生は、一部の人に大きな勇気を与えていると信じたい。
人目は気になるし、「目立つ」事も怖い。だが所詮「100年たてば、皆んな骨」なのだ。10代の頃に悩んでいた大問題が、40も過ぎると何でもない取るに足らない話になるように、自分も周りも変化し、成長していく。気楽に行こう。
人生は続いていく、共に輝こう。
このコラムは2016年2月に執筆。
バンコクの情報誌 WOM Bangkok 04月号に掲載されたものです。
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