大切な人のために、死期を決めるということ。
死に対して後悔を残さないために
祖母が脳梗塞で倒れた。
「もう思い残すことはないんだけど、おばあちゃんに何かあるとまりちゃんが泣くから」
と言って、毎日スクワットをし、新聞を熟読し、何百とある食器を季節に合わせて使い分ける89歳だった。
寝たきりになり、もう声は出ない。
東京・宮崎の距離だったけれど、年に2回は一人で祖母に会いに行っていた。
今年だって、航空券を予約していた。
祖母が倒れるまで1ヶ月もあったのに、休みが取れたことも、何も、まだ伝えていなかった。
もし、祖母が倒れる日があらかじめわかっていたら、どんな過ごし方をしただろう。
話せなくなる日がわかっていたら。
一緒にご飯を食べられなくなる日がわかっていたら。
そして、何年後か、十何年後かに必ず来る最後の別れの日がわかったら。
でも、どうやって?
自分で死期を定めるためには、自殺幇助、自殺、安楽死、尊厳死が考えられる。
だが、自殺幇助は他人を巻き込むことになる。
手伝った人が刑法202条により罰せられてしまうからだ。
(自殺関与及び同意殺人)
第202条
人を教唆し若しくは幇助して自殺させ、又は人をその嘱託を受け若しくはその承諾を得て殺した者は、6月以上7年以下の懲役又は禁錮に処する。
一方で、自殺は宗教的、倫理的に非難されることはあっても、反公序良俗行為ではないため罰せられることはない。
実際に生命保険会社は、保険法で自殺免責規定が定められているにも関わらず、一定条件のもと他の死因と同じように保険金を支払う。
高齢自殺の難しさ
しかしながら、警察庁の自殺統計によると、70代以上では自殺場所の傾向が変わってくる。
海、湖・河川が増えるからだ。首つり、飛び降りに加えて、自殺手段における「入水」の割合が高まる。
年齢を重ね、体力が低下すると、選択肢が狭まってしまう。
選択肢としての安楽死・尊厳死
では、安楽死、尊厳死が有力なのか。
日本では積極的安楽死は認められておらず、2012年に作成された尊厳死法案は下記の通りだった。
第一案:延命治療の不開始
第二案:延命治療の中止
対象となるのは延命治療が前提とされる、終末期だ。
この法案では終末期を以下の通りに定義していた。
尊厳死法案における終末期:
疾病について行い得るすべての適切な医療上の措置を受けた場合であっても、回復の見込みがないか、死期が間近であると判定された状態にある期間
この法案は、提出されなかった。
そもそも、死期を決めてよいのか?
どんな人なら自分の最後の日を決めて良いのだろう。
終末期であれば良いのか。
苦しい思いをするから?高額な医療費がかかるから?
もしくは、自分で決めたら、問題はないか。
自分で決める基準は、例えば「生産活動」ができなくなるから?
そういった考えで死期を定めるということは、優生思想に繋がってしまわないだろうか。
知的障害者福祉施設で入所者19人を刺殺し、入所者・職員計26人に重軽傷を負わせた相模原事件において、植松被告は「心失者」という言葉をつくった。
自分の名前と年齢、住所が言えない人を指し、そういった人たちを殺害の対象とした。
元気に体力があるうちに、自らの価値を自分で決め、死期を定めようする際、その考えの基準を他者にあてはめてしまう可能性はないだろうか。
経済力や運動能力などの生産性がなければ、生きる価値がないといった優生思想におちいってしまわないか。
だからこそ、尊厳死法案に対して障害者団体による批判があったのではないか。
一人が与える衝撃の大きさ
『この国の不寛容の果てに 相模原事件と私たちの時代』(雨宮処凛編著 大月書店)では相模原事件を扱っており、
第3章「命を語るときこそ、ファクト重視で冷静な議論を」の中でBuzzFeed Japan記者の岩永直子氏はこう語っている。
「寄稿してくれていた障害や認知症がある人たちが、みんな具合が悪くなってしまったんです。
心理的なショックだけでなく、実際に体調を崩してしまう。
障害などハンディを持つ人たちに対してあの事件が与えた衝撃の大きさというものを、それによって実感しました。」
自分の死期を定めるというのは、自らの願望をただ叶えるだけなのかもしれない。
ただ、その影響の及ぶ先を無視して良いのだろうか。
それでも、残る気持ち
容態が安定したようにみえて、東京に帰ってしまった翌日、祖母の訃報が入った。
急ぎの仕事なんてなかった。
また帰ってくれば良いと、ただそう思っていた。
倒れる前に電話していれば聞けるはずだったおばあちゃんの声を、懸命に思い出す。
「クリスマスもお正月も一人で過ごさなくていいんだねぇ。
クリスマスケーキはどこに頼もうか。おせちは2人分つくろうね。
何よりまりちゃんの声が元気そう。おばあちゃんはそれが一番嬉しい。」
自殺免責などについて書いています。 生きることも大切にしたいから、死に向き合ってみたい。