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言語分析未来予測

言葉の分析とは何か

 我々がすでに知っている言葉とは、国語からの知識や辞書からのものであるが、言葉には別の側面がある。
 言葉は人が発した瞬間から、性格を表わし、願いや意志、考えなどの方向性を持っている。そして人は考えて行動するものだ。
 「何も考えてなかった」と言っても無意識に考えているものだ。無意識が「考えてない」とすると、フロイトの精神分析は成立しないのである。また、衝動的な言動だとしても、それが性質として言葉で表される。人の言動は全て言葉の範疇にあるのだ。

 たとえば、あなたと他者との関係は、あなたが語る言葉に表れている。
 あなたが相手の好ましいところを語るとき、二人の良い関係が明らかになる。
 逆に、相手の不審な点を語るとき、二人の関係が不安定であることが分かるのである。

 そんな言葉は突然できたわけではない。数千年の人の営みから生まれてきたのが言葉である。

 数千年の人の営みが、人類を進歩させてきた。
 人類の進歩があるからこそ、新しい言葉が生まれるのだ。
 たとえば、コンピューターという名詞は、PC:パーソナル・コンピューターへと発展し、インターネットへと展開していった。具体的な発明品と言葉は、一体となって未来に発展し、展開して行くのだ。
 言葉は、そのように人の創造と共に未来という方向性が備わっている。それゆえに、言葉の分析は未来予測的なものとなるのである。

 たとえば、経済とは漠然とした経済現象が存在しているわけではなく、人の欲望と意志や考え、その結果としての活動の反映そのものなのである。

 政治も集団での政党政治というよりは、たとえば小泉政権からの「官邸主導」という言葉のように、意外かもしれないが首相の性質や意志が強く表れるようになったのである。もちろん、秘書や側近、様々なブレーンや、閣僚の進言もあるだろうが、それら全ての影響も、まとめて首相の言葉となって個性的に発せられるのである。

 よくテレビでは、科学が未来のように語られるが、それは過去と現実との比較で分かりやすくその発展を説明できるからに他ならない。だとしても、ただ漠然とした科学現象があるわけではなく、学問を追究しようとする人の願いや意志、考えが研究を繰り返した結果、人が新しい発明を完成させるのである。

 そのような影響から、全体が新時代に対応しようとするため、言葉も新しく生まれるのである。科学の発展と同時に新しい言葉も生まれることで、多くが未来という方向を意識するようになるのだ。

 言葉はどれもそうやって生まれてきたものであり、全ての言葉は未来という方向性を持っている。
 だから、言葉を分析することはひじょうに予測的な思考である、と言えるのだ。

未来という未知

 「現在」というものは定義しづらいものだ。過去から見れば「現在」は、いつか分からない未来であり、現在は一瞬、1秒ごとに過去になるので、現在というものは、まるで存在しないかのようである。であるにも関わらず、人は誰でも今・現在を感じ、そこで生きていると思っているのだ。
 現在という時点は、その場にとどまることはなく、秒針のように常に進んでいく存在であり、過去は全ての時間を呑み込もうとしているのである。これはまるで、人間が観察するからこそ永遠に膨張する宇宙のようではないか。我々が見ている夜空の星には、何光年も遠いという途方もない時間が存在しているのである。

 このように考えると我々人間の生きているという実感は、止まらずに進んでいく今・現在にしかないのである。
 つまり、進んでいく時間とは、常に人間が感じている生きているという実感に他ならない。人は、一瞬・一秒ごとの速さで未来に飛んでいきながら、常に一瞬・一秒後を過去と感じることでしか「現在」を感じられないのである。

 過去を分かっているから・知っているからこそ現在を実感する。だとしたら、過去を完全に忘れてしまったら現在を実感することはできないのではないか? とは言っても過去は、ただ時間をひたすら呑み込んで膨張して行くことでしかない。自分の人生すら思い出せないこともあるのだ。一瞬で過ぎ去ってしまう今・現在に生きることは、時間の中の記憶をも曖昧にしてしまうのだ。

 ただ過去が膨張しているとは言っても、我々、生物しか今・現在を感じられない存在である。そして、人の過去こそ人生である。人間だけではない生物すべてが、そんな人生・寿命という限られた時間の中でしか生きられないのだ。
 しかも、時間は常に過去に一瞬・一秒を呑み込まれながらも未来という方向性を持って進んでいるのだ。とは言っても、人は未来を知らないのである。過去は、体験・経験と記憶の中で存在していた(しかし時間と共にその実感は薄れていくものだ)が、未来はまだ何もないところの全く「不確か」なものなのだ。これはまるで、人間という存在そのものが未来において不確かである、と言っているようなものである。

 人間は類人猿から進化したと言われている。それは有力であるが、まだ仮説である。たとえば、近年注目を集めている仮説では、最初の人類は女性であり、男性は遺伝子の突然変異で生まれたとされている。もちろん、仮説であるから現在も議論が続いているのだが、人類の進化という過去についてもこれほどの不確かなものなのである。
 さらに未来は、我々にとって、まだやってこない知らない時間である。この不確かさは決定的であり、人は将来・未来の自分の考えや思いや行動も分からないし、だからこそ自分の将来・未来の状況や状態をも知ることはできないのだ。

 とにかく人間の関わるものは将来や未来において不確かであり不確実である。環境破壊は地球温暖化を起こし、予想だにしない世界的な災害が人類を襲っている。
 地震予知連絡会は、地震は予知できないと発表し、1995年の阪神大震災を機に地震予知から防災へと転換した。
 そんな地球環境などの将来や未来も、不確かな人間が関わっているのだ。地震災害にしても、将来や未来はマグニチュード 7.8という巨大地震を用意しているにもかかわらず、人間は全く予知できなかったのである。しかし、それまでは、それが不可能だとは思いもせず、地震予知に躍起になっていたのだ。

 我々にできることは、過去の情報で将来や未来を予測することでしかないのである。
 未来は、絶対的に未知:まだ知らないこと・まだ知られていないことなのである。


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