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大学とは、退屈の第二形式を生きる術を会得する場所ではないか
※この文章は國分功一郎先生の書いた、「暇と退屈の倫理学」をもとにして書かれています。
大学に入ると、それまで過ごしてきた環境からの変化に対して、どう過ごして良いのか戸惑う人は多いのではないだろうか。
多くの人は、中学、高校生活を経て大学に入学する。だが、この中学、高校生活と大学生活は、少なくとも筆者の体験では、かなり異なるものである。
中学、高校生活は、一言でいうと、やることに覆い尽くされている。月曜から金曜まで大体9時〜15時で学校に行き、その後は人によっては部活を行うか、あるいは塾に行く。家に帰った後や土日は暇である(これも人によっては部活の試合で埋められていたりする)が、そこまでまとまった時間がとれるという印象はあまりないし、規律正しくある程度画一的に生活するように設計されたのが中学高校であると感じる。
一方で、大学生活は、人によって程度の差はあれど、中高のときより暇である。講義はあるが、数は中高のときより少ないし、そもそも出なくてもいい(一応注意しておくと、出る必要がないと言っているのではなく、出席に対する強制力のあるなしの話である。中高の方が授業を休みづらいのはなんとなく体感でわかるところだろう)。講義以外の時間も、部活に入れば忙しいかもしれないが、サークルだと参加に対する拘束力は薄いので、休もうと思えば休める。大学は全体的に拘束力の薄い場所である。
そんな大学に、中高を経て入学すると、戸惑う。何に戸惑うのかというと、どう過ごせばよいのかに戸惑うのである。何かをやりたいけど、何をやっていいのかがイマイチ分からない。とりあえず講義には出るしサークルにも入るけど、なんとなく毎日を過ごしているだけだと感じるのである。特に大学入学前には必ず受験勉強をしており、その時期は受験勉強という"打ち込むこと"があったので、なおさらその差異に戸惑ってしまう。
ここまで書いてきて、ではどうすればその戸惑いから脱却できるのか、という話だが、その問いに答える前にまずタイトルにある「退屈の第二形式」の話をしたい。
退屈の第二形式の詳しい詳細は暇と退屈の倫理学を読んだ上で理解していただきたいが(むしろ積極的に勧めたい)、簡単に言えば、なにか気晴らしをしているのにも関わらず退屈な状態のことである。
この状態についてもう少し理解を深めるために、先に示した具体例と照らし合わせて考えたい。先の例では、講義やサークル活動をしつつも、なんとなく毎日を過ごしているだけだと考えている大学生についてふれた。ここでまず一つ目に、気晴らしとは講義やサークルの活動やその他の大学生活の日常のことである。次に退屈とは、なんとなく毎日を過ごしているだけだと感じているその状態を指す。つまり、先で示した例の大学生は、退屈しているのである。
次にこの退屈からどうやって抜け出すのかについてだが、これに関しては2つの方法がある。1つ目は決断によって仕事の奴隷になることであり、もう一つは自分の環世界に不法侵入してくる何かによって自分の環世界が打ち壊されることである。このうち前者は悪手であり、私たちが目指すのは後者である。どういうことかを順を追って説明していこう。
まず一つ目について、これも詳しい内容の説明は暇と退屈の倫理学に譲る。これについて概念的な説明を簡潔にするのは難しいが、「退屈から逃げるために何かを選び取り、それによって発生する仕事によって人生を埋め尽くすこと」とここでは説明してみる。ここで意識しておいてほしいのは、「退屈から逃げるために」という部分である。なんとなく過ごす毎日に耐えきれず、仕事(ここでいう仕事とは、必ずしも給料もらうためにやる一般的な”仕事”に留まらない)で人生を埋め尽くすことを選ぶのである。なぜなら、そうすることによって退屈に対して目を向けなくてよくなるからである。なぜこの一つ目の手段が悪いのかは、二つ目の説明を終えてから述べる。
次に、二つ目の説明であるが、「自分の環世界に不法侵入してくる何か」とは、要するに自分がいままで生きてきた世界をうちこわすような何かである。そのような何かに出会うと、人はそれの対応に夢中になる。抽象的なので私が考える具体例を出すと、バンドの演奏に衝撃を受けて自分もそういった演奏をしたい、と考えて四六時中バンド活動に夢中になることや、哲学の講義のなかで出会った考えに感動して文献を読み漁ること、などがあげられそうだ。ポイントは、「自分の世界がうちこわされて」という部分である。
両者の説明が終わったところで、なぜ一つ目は悪くて二つ目が良いのかを説明していく。ここでポイントとなるのは、何かに夢中になる「きっかけ」である。前者は何か仕事で埋め尽くされており、後者は新しい対象への思考で埋め尽くされている。こういった意味で両者は似通っているが、前者がよくないのはそれが「退屈から逃げる」というきっかけからなされていることにある。そのようなきっかけをもって仕事の奴隷になると、自分の世界を打ち壊してくれるような何かに出会っても、そのシグナルを見落としてしまう。そして、このような形で仕事の奴隷になることは、好きで物事に打ち込むのとは全く違うものである。
ここでも私が考える具体例を出すと、「資格をとっておけば安心だ、と考えて資格勉強に打ち込み、その結果としてバンドの演奏を聞いても心が動かされないし、哲学の講義を聞いても感動することがない」とかであろうか。注意してほしいのは、私たちは生きていかなければならないので、そのために必要な資格取得を行うのは私は真っ当なことであると思う。ただ、「退屈から逃れるために」資格取得にいそしみ、その結果として自分の心を豊かにしてくれるはずだった何かを見落としてしまうのは、すくなくとも私は嫌だと感じる。
さてここまで説明したところで結論だが、私の思う結論は、「退屈の第二形式を生き、その中で自分の世界を打ち壊してくれる何かに出会ったら、それに徹底的に夢中になる」である。
まずベースとして、退屈の第二形式=気晴らしをしつつも、なんとなく漫然と毎日が過ぎていく状態、は避けられない。むしろここから逃げようとすると先ほどの資格取得の例のようになってしまうので、退屈の第二形式を生きる覚悟はするべきである。そして、そうやって生きている中で、たまに自分の世界を打ち壊してくれるものに出会う。そしたら、それに夢中になれば良いのである。
ただ、そうはいってもどうやったら自分の世界を打ち壊してくれるものに出会えるのかという話がある。かくいう自分も大学時代それに悩んだ。暇と退屈の倫理学では、そういったもの=自分の世界を打ち壊してくれるものに出会える確率が高いところに行くのが良いといっていた(文中の例ではそれは美術館や映画館であった)。確かにそれができれば理想的なのだが、大学生の時点で自分にとってどこがそういう場所なのかを最初からわかっていることはあまり無いんじゃないかと思う。
じゃあどうすればいいのか、という話であるが、私は「とにかくいろいろやってみる」がある程度具体的な答えになると思っている。というのも、自分を打ち壊してくれるものに出会うためには、やはり打席に立つ数を増やす必要があると思う。先ほど示した例ではバンドの例と哲学の授業の例を挙げたが、そもそも演奏を聴きにあかなければバンドに感動することは無いし、授業を取らなければ講義に感動することもない。やはり自分からいろいろ行動してみなくては始まらないのである。私はこの行動変容が大学生活最初の関門だと思っている。
長くなったが、これで終わりである。正直、世界を打ち壊してくれるものに出会うのは、けっこう難しいことだと思う。そして、難しいだけに、それに出会えるということはすごく貴重なことだと思う。だからこそ、退屈の第二形式から逃げずに(逃げてしまうとシグナルに気付けなくなるため)、その中で生きていくすべを身につけてほしいと思う。
そして、退屈の第二形式という貴重な時間を生き、生き方を体得することができるのは、普通の人生だと大学生活くらいしかないと思う。社会人になると再びやるべきことに埋め尽くされるため、たまに退屈の第二形式を生きることはできても、生き方を体得するまでは結構難しいんじゃないかなと感じる。
最後に、自分は大学入学直後に退屈の第二形式に悩み、いろいろやってみて、自分を打ち壊してくれるような体験も少しあった、くらいの中途半端な人間である。だが、それであっても自分の大学生活には満足しているし、あの時退屈から逃れるために仕事の奴隷にならなくてよかったと感じる。もし同じ悩みを生きている大学生がいるならば、この記事が何かの助けになれば幸いである。
そしてこの記事を読んで何かを感じた人は、ぜひ暇と退屈の倫理学の方も読んでいただきたい。