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ありがとう

気づきで震える事ってありますか?
点と点が結ばれた時、これまでの伏線に気づいた時
思いが溢れた時。

私は時々見えていなかった自分に気づいた時
バードスキンが起こる。
「お陰様」「有難う」漠然と良い言葉だと思っていたし
「地元を盛り上げたい」「もっと地元に貢献したい」
こんな思いを聞くたびに素敵だなと思う反面、
どうして自分はこういう、人の為にという精神が希薄なのか。
と薄々気づいていた部分はあった。

今日、その点と点が結ばれて何だか腑に落ちたというか
私も他人を思いやれる人間になりたいなと心から思った出来事を
忘れないようにキロクしておく。
今までも職種柄、主役はゲストであって、私はあくまでそのパスを
出す役と思って仕事をしてきた。
でも心のどこかでは多分、爪痕を残したい的な気持ちはあったのかもしれない笑
そういう思いは言動に出るもの。
相手に伝わるもの。

これをしたら相手が喜んでくれるその顔が見たいなんて思った事もあったはずなのにその感情が欠落していた事に気づいた今日。
一人っ子で鍵っ子な私はやはりどこかで自分1人で生きてきたような感覚がある。
学費も生活費も自分で出してきたし、自分の事は自分で全て行動して決めてきた。。。。と思っていた。
仕事も取材先の選定からアポとり、ディレクションからリポーター。
一人喋り。一人で完結し、一人で担当枠を担当した経験が殆ど。
チームでの仕事も「ここからここまでが私の責任」という仕事の仕方だった事が多い。

でも、やっぱり「人は1人では生きていない」
見えなかっただけ?見なかっただけで沢山のサポートを
私は受けてきていたはず。
仕事だって一人で作りあげられるクオリティなんて限られてくる。
そう、見なかっただけ。

あの時、お仕事が上手くいったのも、そうなるように進行してくれた人が
いたから、そうふってくれた人がいたから。
あの時、紹介して貰えたから、あの時私の話をしてくれたから
いつだってその人達は「私の力になれるのなら」と何の見返りも求めず
手を差し伸べてくれた人ばかりでした。

私はそれを見ていなかった。いつだって私が上手くやる為には
私が嫌な思いをしなくて済む為には、私が満足できる為には
常に自分主体の生き方をしていたんだなと。。。

だから育児や家族の事で身動きが取れず
自分の事に時間を使えない事をストレスに感じる。
その環境に慣れていない私の価値観がネガティブな感情を
産み出すんだなと。
「笑ってくれて嬉しい」この感情は確かにあるはず。
「私もこの人が喜んでくれるからこれをする」そこに幸せを感じられる
人間になりたい。今からでも間に合うのだろうか笑

良い人になりたいとかではなく
何よりそんな子供達に育ってほしいから
そんな人達とお仕事や生活も共にしたいから
「ありがとう」を心で感じて口にできる自分になって
家族や周りと接したい。
気づかせてくれた環境と出来事と全ての人に心から
「ありがとう」