心配りって配る人が増えると楽になるけど1人だけだと少しずつ辛くなるよね
って話しします。
はじめましての方は、はじめまして。
いつも読んでくださっている方はありがとうございます。
スマホアプリpocochaでLIVE配信で主に活動しています。
フリーライバーの苺大福ちゃんです。
さて、今回は私の実体験を交えて、タイトルにもありますが“心配り”についての考えをここに綴っていくことにしました。
もし要点だけ読みたい人は1番最後のトピックだけでも伝わるかなって思います。
これを読んでくれた人が、どうか1人でも“こんな考えの奴もいるんだな”と、心の隅の方にでも置いて頂けることを願っています。
“心配り”ってなんだろう?
“心配り”とは、その場の状況に応じて適切だと思うように配慮すること
だと私は思います。
“心配り”って世の中にはたくさんあって、それを心配りだなんて気が付かないでいるもの、その中にはあるわけで…。
ひょっとすると、気が付かないだけでら世界はそんな“心配り”で溢れているのかも知れませんよね。なんとも素敵な世の中だなと思います。
あれ?
でも、少しだけムズっと来ませんか?
こう…ムズムズっと
せっかくの心配りなのに気が付かないのですよ?
こう…私としてはもっとアピールしてきて良いよ!という気がするというか…。もし私がする側ならば気がついて欲しいな。なんて思うわけですよ。
我ながら、わがままなんでしょうか(笑)
なぜ、ここへ来て“心配り”についての話しをはじめたかと言いますと
11月の末頃から体調が良くなくてですね。12月中は現在までおやすみをしている状況でして、配信をしていない日々もつい配信のことを考えてしまうのです。
私が配信を休む間、またいつかは来る辞めた時なんかに“私”と“リスナーさん”との間に残る物について考えてみたんです。
まず私の中で残る物で思いついたのは、配信に対する“感情”や今まで積み上げてきた配信内での“思い出”です。
でも、私がリスナーさんの中に残って欲しいなと思う物は、今までリスナーさんに込めてきた思いや対応、そして“思想”であって欲しい思うのです。
なので、そんな私の考えを1つここに残しておきたいなと書くことにしました。
私の思いやりの原点
私は、中学生の頃の担任である国語を担当していた先生から教わった言葉を今も忘れずにいます。
“己の欲せざる所は人に施すことなかれ”
自分の嫌だと感じることは、人からしても嫌だろうからしてはいけないよ。そんな小学生までに教えられてそうな言葉を、なんか昔のお偉いさんがかっこよく残しただけだと言うのに、心に残り、そこで逆を思ったのです。
じゃあ私は“自分のされたい事を人にしてあげよう”と…。
でも、自分でもこの考え、だいぶ欲に塗れた考えだと思っています(笑)
自分勝手に…それはもう自己満足に私はこれを実践してきました。
情けは人の為ならずというでしょう?巡って自分の為になる。そこを思い、つい欲してしまっている自分を潜ませながら実行していったのです。
“善意は善意で帰ってくる”
中学生からの私は行うほどにそれを実感して行きました。
例えば…(例えばあまり上手くはないのですが)
コンビニへ行き、店内を物色し、欲しいものを入れた買い物カゴをレジに置く。
すると、レジのお姉さんはキチンと目を合わせ、それはもう爽やかに「いらっしゃいませ」と笑顔になり、会釈をしてからカゴに手を伸ばしてレジ清算をしたとする…。
どうだろうか?こんな店員さんに怒る気が起こりますか?(シャレに対しては怒ってください)
少なくとも私はなりませんし、なんならちょっと嬉しいくらいです。
自分のして欲しい振る舞いをしていると、自然と人間関係は上手く行き、人に嫌がる事をされなくなり、人の気持ちを察しやすくなる。宝くじに当選したり、モテモテになったり、そんなご利益はなかったけども(笑)
そんな実感は私の中で“確かなもの”になって行きました。
ネットと心配り
少し成長してから私は、今メインで活動をしている“LIVE配信”にたどり着き、ネットと密接に関わる生活を送るようになりました。
全ての人がそうではない。
そう理解してはいるつもりなのだけど、悪意に触れる機会は少しずつ増えました。善意を尽くしても、尽くすは言い過ぎかな?心がけても、相手は無自覚なのか、ちくりお刺激を与える人や、傷付くだろうと分かるような言葉をかける人も居ました。
おい。話が違うじゃないか。と
今まで経験した法則との違いに、かなりの戸惑いがありました。
そもそも、私はネットと実際のコミュニケーションのそれぞれを"別"として対応を分ける必要はないと思っています。
なので、これは嫌かな?になるべく触れないように気持ちよく接する心がけをしていました。
ですが、十人十色、みんながみんな同じであるはずもなくて、更に厄介なもので、ネットでは普段は言えないことを言いやすくなるらしく…。ネットならではの環境が存在しているみたいなんです。
今でもこの事を不思議に思います。
ネットでもリアルでも、対人としてのコミュニケーションに差はあまり無いだろうに。
差があるとしたら…
私はここで気がつきました。“匿名性”だと。
自分の事が知れていない環境だと酷いこともできてしまうのだという事に。
心が折れそうになる事もありましたが、悪意もなるべく面白おかしく受け取り笑い返す。それに少し疲れてきたら、受け止めずスルー。そしてなるべく嫌なことを言う人とは関わらない。
そんな風にしながら進み続けて行きました。
私は “嫌だ” と、伝えるのが苦手です。
正確に言うと少し違うのだけど、人のためにならば、やめた方がいいと注意出来たり、ただしあると思うことを強く言えるのだけど、自分の事に対しては大体は我慢をしてしまった方が楽だと思っている所がある。
でもこの苦手が原因で周りの人は私の嫌がっている事を知る機会を奪っていました。
察するなんて都合の良いことは難しい
大概は すれ違ったり 勘違いしたり
人の意図は必ずしも真っ直ぐには伝わらない。
なのに言わなかった。
というか、言いづらかった。
私は少し空気を読むことや、相手のことを思い過ぎているのかも知れない。
優しくする事にやり過ぎなんてないと私は思うのだけど、それでも相手を考えて自分は我慢して、それに耐えられるだけの器じゃないのにそれを続けたら…
与えたものが残る
こんな話をしたら、すごい思いやりのない人が多いののかと誤解を与えてしまいそうなのだけど、そんな事はなくて、私を気遣ってくれる人やサポートしてくれる人はもちろんいてくれる。たくさんいる。
だけど、こんなことを続けていくのはなんだか損なんて言い方はしたくないけど、そんな気がしてね。(しゃれじゃないよ)
私は+1を渡して、相手は-1を返してくる。
相手から-1を受け取り、私は+1で返す。
数字だけ見たら、なんだ±0じゃん。と思うかも知れない。じゃあ、言い方を変えよう。
1つ私は相手にあげて、相手は私から1つ取る。
相手は私から1つ取って、私は相手に1つあげる。
必ずしも同じ相手ではないけれど、私は1人だということは変わらない。配るばかり、なくなるばかりで受け取るものがない。
もし一定数所持してたとして…このままだと、手元にあるものの数はマイナスになってしまう。心が数だとするならばいつか無くなってしまう。
果たして、そんなやりとり必要だろうか?
私は何も、利益が欲しいわけではない。
互いを思いやりたいのだ。
ネットにいるからこそ、目に見えない相手と接するからこそ、そうでありたい。
LIVE配信と出会って、配信はコミュニケーションを多く必要とする場合であることを知り。また“配信者”そして“リスナーさん”が居てはじめて成り立つ。
そして“配信者”が1人なのに対し複数人の“リスナーさん”を相手にコミュニケーションが交わされる場でもある。だからこそ、気を配り合いバランスを保つ必要がある。
+1を渡したら、+1が帰ってくる。
互いがそうであれば、お互いはマイナスにはならない。それがいい。
人に何かを与える事はリスクが高いからしたくない。けど、貰えるものはもらいたい。そんな自分勝手な人ばかりではなくて
集めようとする人がいなければ、与えたものがきっと残るはずだ。与えられたもので満たされるはずだ。
最後まで読んでくださりありがとうございます。
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