空と蜘蛛

雲ひとつもなく澄みわたっていた。絵の具みたいな青色をしていた。たとえ青色を知らなくても”青色”だと分かるような、そんな青色だった。それを見て僕は、死ななきゃいけないんだ。と反射的に思った。空がどうしようもないくらいに、取り返しが付かないくらいに、綺麗だったから。

子供の頃に思い描いていた大人や世界。それらの理想像と現実はかけ離れていて、もう取り返しが付かない程に開き切っていた。あの頃描いた職業に付けるはずはなくて、話しかけられるだけで動悸がして、仕事に行けなくなった。友達にも返信ができなくなった。僕は孤独に向けて、終わりに向けて、少しずつ、でも確実に、進んでいっている。あの時の僕が今の僕をみたら笑ってくれるかな、情けないなって、何やってんだよって、死ねよって、言ってくれるかな。そんなどうにもならないことを考えていたら、昨日が終わって、今日が終わって、明日が終わっていった。

僕は上手く生きれないみたい。それは、感情が形成されるの前に受けた虐待のせいなのかもしれない、中学校に上手く馴染めなくて端っこで本を読んでいた僕を虐めていたあいつらのせいなのかもしれない、生まれ持った低い身長のせいなのかもしれない。それらを経て、僕は歪んで、捻くれていった。幸せをそのままの意味で受け入れられなくなった。思った言葉をそのまま口に出せなくなった。人の顔色を窺うようになった。愛想笑いがほとんどになった。人に合わせることしかできなくなった。自分の形を変えるようになった。そのうちに、自分がどんな形をしているか分からなくなって、自分が誰なのかさえも分からなくなった。形状記憶が、できなくなった。

自分が誰だか分からなくても、月日は残酷に通り過ぎていく。通り過ぎていくそれらを何ひとつ捉えられないまま僕は、若さや容姿を失っていっている。このまま、何もないまま大人になるのが何よりも怖い。今の若さや容姿だから寄り添ってくれている人たちが、若さや容姿を失っていく僕から離れていくことが怖い。許容されていた、享受されていたものが無くなっていくことが怖い。だから、その前に何者かにならないと。はやく、取り返しがつかなくなる前に。


知らない土地の知らない場所なのになぜか、もう既にその景色を見ているような気がした。景色に限らず、出来事でも、数年前からそんな感覚をよく感じるようになった。どこかでその写真を見たのかもしれない、同じような出来事が小説や映画の中にあったのかもしれない。あるいは、僕は同じ人生を繰り返していていて、その時の記憶の断片を拾ったのかもしれない。そのような感覚を覚えるようになったと同時くらいに僕は憂鬱を抱えるようになった。自分がどこにいるのか分からなくなった。どこか浮ついていて地に足がついていないような気がする。生きた心地がしない。朝起きて僕は、僕ではない僕を動かしている。薄い膜を一枚隔てて。歯を磨かせて、生活をさせる。それが意識的になのか、無意識的になのかさえ分からない。僕は、僕ではない誰かを生きている。


駐車場の料金表示の看板に張り付いた500円玉ほどの大きさの蜘蛛が、今日も変わらずそこに張り付いていた。今日も明日も明後日も、おそらく一年後も。蜘蛛はただ、そこに居続けている。この世界の仕組み、世界情勢、昨日のニュース、戦争で死んだ孤児、君の存在、僕の憂鬱。そんなことは知る由もなくて。僕がこの世界に居ても居なくても。その蜘蛛は寿命がつきるまで同じ場所で、獲物がかかるのを待ち構えている。ただ、そこで待ち続けている。

季節の変わり、蝉の声、無機質な鉄塔、彼岸花、青すぎる空、潮の匂い、三日月、不規則に点滅する街頭、快速電車、桜の花びら、磨りガラス、あの日見た夢、心象風景、君が死んだ日、雑踏ですれ違った人、通り雨、神様、海沿いの小さな部屋、君の温もり、張り付いたままの蜘蛛。

それらは僕の目の前を通り過ぎていったが、僕はそれらを何ひとつ、捉えることができなかった。そしてそれらを捉えられず、通り過ぎていくごとに、一本ずつ、ゆっくりと、薄い糸が僕の体に巻きついていった。


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