273日
茶色に濁った波が砂浜に打ち寄せている。波は満ちては引いてを繰り返しながら少しずつ僕の方に近づいていく。どうしようもなく逃げたいのに手や足が思うように動かない。首が回らない。僕は砂浜に首から下が埋まっていた。しょっぱい水が口の中に入る。恐怖が体を支配する。埋まっている僕を見て父親が笑っていた。無力感。そこで記憶が途絶える。
僕の一番古い記憶。
蝉時雨が止んできた頃、海沿いの小さな部屋の中で僕は“土の中の子供“を読んでいた。土の中に捨てられて孤児となり、親戚の家に引き取られた後も理不尽な虐待を受けつづけた男の27歳時のはなし。読み進めるうちに幼少期の記憶が蘇ってきた。砂浜の中に埋められる。ハンガーで背中を叩かれる。山奥の神社に置いていかれる。心の形が留まらない程の言葉。父との喧嘩でヒステリックを起こす母。ぼんやりと、あるいは鮮明に。それらの記憶は僕の中で生き続きている。
それを思い出したと同時に、虐待の記憶くらいの幼少期から僕の中にある心象風景が頭に浮かんできた。森の奥深く。不自然に開けた場所にある大きな木。木陰のベンチに座っている白いワンピースの女の子。どれだけ近づいても顔はぼやけて見ることができない。夢の中に出てくる女の子。そんな心象風景。僕にとっての大切な場所。この世界で僕だけが持っている特別な風景。僕はその場所をずっと探している。白いワンピースの女の子をずっと探している。きっと見つかることは無いけれど。でもそれで良いのかもしれない、何かを成し遂げてしまったら俺は燃え尽きちゃうから、もういいやってなっちゃうから。
なんて。都合のいい文句すぎるよな。何も成し遂げれなかったから適当な理由で逃げ道を作って勝手に自己解決して。自分に要因があるはずなのにそれは見えなかった事にして、挙げ句の果てに家庭環境のせいだとか言っちゃって。
枝分かれした先の俺は小説家になっているんだって言い張る男の子。
いま生きている世界に並行世界という概念があると本気で思っている。”道にタバコを捨てる”そんな些細な出来事でもその場所を分岐点として”タバコを捨てた僕”と”タバコを捨ててない僕”に枝分かれしていて、その地点で二つに別れる。そして二つの僕が四つに分岐する。其々が其々で意識を持って、分岐を繰り返していって僕たちは今も耐えず枝状に広がっている。
だからどこかの俺は小説家になっているんだ。なんて、はは、笑える。そんなイメージなんて、何にもなれなかった果ての拗れた妄想に過ぎなくて。どれだけ分岐を繰り返した先でも汚い文脈でしか文章を書けない、死に損ないの俺がそこにいるだけで。そんなことは分かっているはずなのに。分かっていたはずなのに。どこかで、どこかの、俺は、きっと。
君と僕は生きづらい不条理なこの世界に順応できなくて世界の端っこに追いやられた。不良品だとレールの上から摘ままれて籠に捨てられた。君と僕が住んでいた海沿いの狭い部屋。世界の端に追いやられた部屋の中で、君は僕を肯定してくれた。受け入れてくれた。理解しようとしてくれた。だから、たとえ世界の端っこであっても、どうしようもなく不条理で生きづらいこの世界でも、君と同じ部屋に住んでいた9ヶ月の間だけは生きていたいと思えていた。273日の間。
「そうだ、僕はずっと鉄塔になりたかったんだ。そこにあるはずなのに意識しないと目に入らなくて、みんなから忘れらている無機質な鉄塔に」
「すごくいいねそれ、馬鹿みたいだけど、どこか君らしいよ」
微笑みながらそう言ってくれた君は、ある日突然どこかに行ってしまった。この世界に僕を残して。憂鬱だけを部屋の中に残して。そうだ、僕ははやく鉄塔にならなきゃいけないんだった。君が少し先にそっちに行ってるのだから。僕もはやく行かなきゃ。はやく、はやく。行かないと。
砂の中の子供、ヒステリックな母、鉄塔、ニュースキャスター、森の中の女の子、夢に出てくる心象風景、海沿いの狭い部屋、君が残した憂鬱、ガラクタをぎゅうぎゅうに詰め込んだビニール袋。
俺ははやく鉄塔にならなきゃいけないんだ。だから、俺の前から全て消えてください。もう俺の前に出てこないでください。
君も僕もあいつもあの子も、砂の中にいる子供も
ぜんぶ
消えて