憂鬱を僕の中に残して
僕は海沿いにある小さな街に住んでいた。だから、小さな町のことしか知らなかった。見えている世界のことしか分からなかった。目の前で起こる出来事だけが世界の全てだった。戦争なんて映画の中だけでのフィクションだと思っていた。物語の最後は決まってみんな笑っていた。神様は居ると思っていた。だから。僕は幸せだった。”公正世界仮説” 努力すれば報われる思っていた。いい事をすれば相応の対価が享受される思っていた。不条理って言葉さえ知らなかった。自殺なんて言葉だけだと思っていた。世界は公平で、人はみんな平等なのだと思っていた。そんな世界の中で、僕はみんなと違って特別なのだと思っていた。どうして上履きが灰になっていたかは分からなかったけど、そんな事はどうでもよかった。小さな街の小さな組織では馴染めなかったけど、馴染めないのはきっと周りのせいで、大きな街の大きな組織になら馴染めると思っていた。だから、大人になったら、大きな街にいこうと思っていた。大きな街には君が居ると思ったから。顔も名前も分からないけど、僕を理解してくれる君がいるはずだった。だから。だから。
僕は大人になって、大きな街に住むようになった。大きな街で君と出会った。君は僕の事を理解しようとしてくれた。寄り添ってくれた。だから、僕は幸せだった。
”快速電車が通ります。危ないですので黄色い線から離れてください”
それは、僕の目の前で。君の目の前で。僕たちの知らないところで。忽然と過ぎ去っていく。通り過ぎていく。
災禍。殺人。テロ。戦争。病気。自死。
それらは、僕の目の前で。君の目の前で。僕たちの知らないところで。忽然と起こっては過ぎ去っていく。通り過ぎていく。あるいは、目の前に止まって居座っている。
大きな街の大きな組織の中でも僕は、馴染むことが出来なかった。馴染めなかったのも、上履きが灰になっていたのも、僕自身に要因があるようだった。僕は周りから、疎まれていた。疎外されていた。世界は公平とはかけ離れていて、どうしようもないくらい、不条理だった。”人はみんな平等”なんて絵空事で、世の中は上手く生きられる人と、上手く生きられない人に二極化されていた。僕は特別でも何でもなくて”上手く生きられない”側の方の一人に過ぎなかった。公正世界仮説は物語の中にしか存在していなかった。戦争は僕たちの知らないどこかで、絶えず行われていた。神様は居なかった。大人になって見える世界は広がったけれど、相対的に僕は小さくみえた。あの時小さな町で僕が感じた幸せは、感情形成の際の歪みによる、瞬間的な錯覚だったのだと気づいた。そして僕は、大きな街のはずれにある、小さな部屋に追いやられた。
「一歩前にでたら、全部終わらせれるのかな」
君は小さな声で、今にも消えそうな声で、たしかにそう言った。
目の前を快速電車が通り過ぎる。無機質な鉄の塊が、空気を引き裂いた。目の前の線路を基準として、こちら側とむこう側で世界が二つに分断された。そんな気がした。
「私たちの前で起こった事ではなくてもそれはきっと、私たちの事なんだと思うんだ。あなたの中に四六時中居座っている 暗い気持ちも憂鬱も君だけのものじゃなくて、その中には世界中みんなの憂鬱も含まれている気がする」
「僕の憂鬱の中には君のものも入ってるってこと?」
「そういうこと」
「だから私が居なくなっても、君の中に私の憂鬱は居座り続けるの」
君は微笑みながらそう言った。たしかあの時、僕も笑っていた。太陽と君が重なって、小さな街で見た皆既日食を思い出した。白いワンピースを着ている君は、とてもとても綺麗で、天使みたいに透き通っていた。
なんて。なんてね。
君がこの世界で過ごした、最後の夏だった。
20歳の夏が終わった頃に君は遠いところに行ってしまった。僕が行けないところに、行ってしまった。どこかに。この世界に僕だけを残して。憂鬱を僕の中に残して。
僕の憂鬱が、君の憂鬱が、戦禍にさらされた彼の憂鬱が、交錯した彼女の憂鬱が、一つの場所に集まっていく。一つの場所に集約されていく。それはシャボン玉のような形をしていた。円形を留めず揺蕩いながら、暗く透き通った水の中をゆっくりと沈んでいっている。まるで、深いところを求めるかのように。深いところに向かって。今も。
憂鬱なんてそんなものだったら良いのに。