歪んだ月
クレヨンで画用紙に月をかいている。好きな色だけを使って、弧を描きながら空白を埋めていく。そのうちに隙間は居場所をなくして少しずつ消えていく。隙間が完全に消え去った時、そこには見たことのない色の月が一つ浮かんでいた。
憂鬱は僕に四六時中まとわりついている。それは影のようについてくる。歩いても、歩いても、僕を追いかけてくる。どこにいても離れてくれないんだ。陽光は僕の憂鬱をはっきりと映し出すから昼間はなるべく外に出ないようにしている。僕は遮光された部屋の中で光に当たらないように、隠れるように、画用紙に月を描いている。少しずつ塗りつぶして隙間をなくしていく、その作業がどこか好きだった。塗りつぶしている間、僕は夜空に浮かんでいるんだ。すべてから乖離して、世界から切り取られて、ふわふわとシャボン玉のように揺蕩っている。夜空のなかで僕は少しずつ隙間を埋めていく。ただ、無心で。自分の中にある空白を埋めるように、少しずつすべてを塗りつぶしていく。
夢を見ていた。夢の中で君と僕は小さい部屋でお酒を飲んでいた。君の頬は少し赤くなっていた。それ以外の情景はどこか不透明で、ぼやけた輪郭でしか掴めない。でもそのぼやけた部屋の中で君の声だけがはっきりと残っていた。
「二人だけでどこか遠くに行こうよ。邪魔する人が誰もいない所、ヨーロッパにある海沿いの小さな街。そこには私たちを知ってる人が誰も居ないんだ」
君は僕に向かってそう言った。僕はなぜか喋れない。ことばが吃って上手く出てこない。そんなことは気にせずに君は話し続けた。
「目が覚めたら二人で手を繋いで海沿いを散歩するんだよ。一冊ずつ本を持って、太陽が出てきたらその光を浴びながら突堤の先で本を読むんだ。帰り道はカフェに寄って飲み物を買おう。言葉は通じないけれどそんなことはどうでもいいんだ、私がミルクティーを指さして、君がアイスコーヒーを指さすの。それを飲みながら砂浜を歩いて帰ろうよ。家に着いたら本の続きを読んで、眠たくなったら裸になって眠ろう」
そこで視界が暗転する。君はまだ話し続けているが、僕はそれ以上君の言葉を拾うことはできなかった。
目が覚めると部屋の中が暗くなっていた。寝ている間に夜になっていたようだ。僕が引きこもりのような生活をしている間もこの世界は動いている。あるいは僕が目を覚ましてからこの世界が再び動き出したのかもしれない。喉が渇いているような気がして水を飲んだ。煙草を吸うためにベランダに出る。遠くから電車の音が聞こえる。僕は無意識的に火をつけて、吐き出した煙を目で追うように空を見上げた。そこには今まで見たことのない色をした月が浮かんでいる。僕はその月を指でなぞって空から切り取った。
煙草を吸い終えて部屋に戻ると、クレヨンで描いた月の絵が真っ暗な部屋の中で歪みながら光っていた。
吃って失ったガラクタを集めて瓶に詰めて夜の海に流そう。LEDライトは僕には少し眩しいから部屋の明かりはつけないでおこう。部屋が息苦しくなったら外に出よう。街灯を辿って歩いていこうよ。電車が聞こえる秘密基地にずっといよう。秋は一瞬で通り過ぎていくから、未だに金木犀の匂いが分かんないんだ。冬は毎日散歩しよう。君は寒いの好きなんだよね。信号無視する車に死ねって叫ぼう。君はたまに走り出すけど手は離さないで。春になったら桜をみにいこう。その頃には22歳になってるんだよおれ。もう大人なのかも。取りこぼした花びらを瓶の中集めてテレビの横に飾ろう。原っぱに寝転んで本を読もう。邪魔する人はみんな殺そうよ。夏は真っ暗な部屋が一番居心地いいんだ。だからずっと部屋にいようよ。ひたすら本を読んで、セックスのあとは裸のままで寝よう。二人にはすこし狭すぎる部屋で。
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