小説「京都リ・バース」0 迷宮の鍵 東の都編
私は、どこにでも行けるの。
ポスト・カードが一枚あれば。世界中のどんな街にも、どんな都市にも。
印刷された風景写真を眺めて、目を閉じる。
手の中のカードの風景を、頭の中に出来る限りはっきりと思い浮かべると。
その景色が、現実になろうと、私に近付いてくるの。ぎゅううっと、距離が圧縮されていくような感覚。すぐ側で止まると、ぱん、と扉が開くわ。
私はただじっとして、扉の向こうを眺めるだけ。初めて見る建物であったり、初めて見る街角だったり、初めて見る遺跡だったり。
目に見える限りすべての情景は、写真と同じ場面で、けれどちゃんと、生き生きと動いているのに。
私は扉の向こうには踏み出せない。踏み出してはいけないことを感じていたわ。
このことは他の誰にも秘密。
何時から出来るようになったのかも、もう覚えていないくらい小さな頃から、そんなことが出来ていた気がするの。
ポスト・カードはいつも、お父様が出張先から送ってきてくれた。
書き出しはいつも『ディア マイ・ユキムラ』。
カードの風景写真を眺めて、お父様が居るだろう都市を想像したわ。
そうしているうちに、カードの風景が、心の目で見えるようになった気がする。
扉を使って、引き寄せることが出来るようになった気がするの。
お父様に逢いたかったから……。お父様の居る外国の街の気配を、感じたかったから。
帰国なさると時間が許す限り、私にカードの風景の国の話しを聞かせてくれた。扉越しに私も見たわ、と言ったら。少し驚いて。
「……いけない、事?」不安になった私に。
「いや。少しも悪いことじゃない。ただ、他の人には出来ないことだから、聞いたらびっくりするね」
更に不安になった私に。
「雪村舞。君は私の大切な大切な娘だ。何も心配は要らないよ」
いつもそう言ってくれる。すごく安心できる言葉。お父様の娘だから、何も怖いことなんてない。
この事は、お父様と二人だけの秘密に、って約束したわ。
「……お父様……」
今は、どこに居るの?
……逢いたい……。
私なら、どこにでも行けるわ……。今度こそ、近付いてきた風景の中に踏み出せる気がするの。
来て。私の所に。
世界中のどこにでも繋がる扉。お父様に逢いたいの。探さなきゃ……。
私になら出来るわ。雪村修造の娘だもの。
目を閉じて、顔立ちを思い浮かべる。うまく出来ない。なぜ? お父様の顔、頭の中に描けない?
逢えなくなって、まだ二ヶ月も経っていないのに?
「……お父様……。…………お母様、助けて……」
その時。
はっきりと聞こえた。
堅くて重い冷え冷えとした鍵穴が擦れる音。断ち切るように、掛け金が重く落ちる金属的な音。
「……何……?」
圧縮され、数限りなく私に近付いていた都市、街への入り口が閉ざされたことを教える音だと、すぐに気付いた。
最初の施錠に呼応するように、同じ音が幾十、幾百、幾千、と広がってゆく。同時に、全ての扉が引き、距離を置いた。
「……待って……、どうして……?」
簡単なことだったのに……。何が起きているのかわからない。
扉はちゃんとあるのに……。
鍵を……下したの?
私がいけないの? もうお父様はこの世には居ないのに。世界中を探そうとしたから?
私が、扉の向こうに踏み込もうと考えていたから?
息が詰まりそう……。扉の回りには高い壁が出来ているわ。囲まれているの?
怖い……。誰か居るの? 鍵をかけたのは、誰?
出して……! ここから。……怖いわ。
だって私には分かる……。
ここはもう、私が知っていた世界じゃない。
高い壁と、入り組んだ通路が続いているわ。通路の先には沢山の行き止まり。扉に行き当たる通路もあるけれど。鍵のかかった扉。
開いて! どの扉でもいいから。鍵を開けて……!
「!」
……わからない……。…………どうしてなの?
開けられない…………。
私、もう何も出来ないの……?
この扉があったから、世界中と繋がっているようで、ちっとも寂しくなかったわ。
世界中を飛びまわるお父様に何時でも逢える気がして。世界の国々が、私にはとても優しい場所に思えたの。だから私も大好きだった。
私は、……一人、なの?
もう手は、届かないの?
……私は、何…………?
『……鍵…………』
! ……誰……?
『……お前…………』
うまく意味が感じ取れない。言葉じゃないから。心に直接流れ込んでくる、言葉のイメージが。
扉を開ける鍵、と、私? の事?
「何のこと? あなたは誰? あなたが鍵を掛けたの?」
必死に、誰かの心の声の方向を探るけど。
「ここを開けて下さい! ……お願い……。私を一人にしないで……!」
『…………迷…宮…………』
……ええそう。ここは迷路。とてもとても大きな、迷路の宮殿みたい……。
お兄さん……。紫月兄さん、助けて……。
私の、たった一人の家族。お父様が亡くなってからは、少し様子が違うの。手の届かないところに行ってしまったみたい。仕方がないの。お父様の事業を継ぐのは兄様だけだもの。兄様の邪魔をしちゃいけないもの。私が心配をかけられない。
でも、お兄様の気持ちも、もうわからない……。
「!」
辺りを囲う壁が、赤黒く閃きはじめて、まるで何かの胎動を始めたみたい。規則正しくゆっくりと。血液が脈打っている?
『……迷宮の……鍵…………は……』
「何? 何なんですか?」
突然、呼吸が苦しくなる。誰かの言葉が、肺を押し潰しそうな圧迫感を増していて。
「……や……、何……?」
明確な声へと変化する。低い男性の声。
『お前だ』
※0 迷宮の鍵 完 1 ドクター・クラン に続きます。