小説『アテネ・ガーディアン』3 神の娘
アテネは暑い陽射しゆえにシェスタは欠かせない。その上日没は遅く、九時近くである。
アテネっ子も観光客たちも、日の沈むのを待って、深夜遅くまで食べ歌い騒ぐ。
シェスタの習慣などまったく頭になかったレンは、一枚の許可証を取得するのに、散々待たされ、暑さと空腹と引き受けざるをえなかった仕事のことで、苛立ちは頂点に達してしまった。
今は、ベッド脇のサイドボードで鈍く光る拳銃が、レンに現実を突きつけている。最高級の調度には不似合いな鋼鉄の輝き。冷静にならざるを得ない。
渡された市内地図類を一通り頭に入れると、ホテルの窓から望める、ライトアップされた遺跡がアクロポリスで、その麓にアゴラ、ずっと手前にはプラカと、十年は勤めている観光ガイドのように判別できた。
紫月の妹は古いものが好きなようだった。
遺跡や神殿、博物館や美術館がリストの大半だ。まだ十四歳だというのに、変わった子供だとレンは呆れた。
ブランド物のショッピングに引き摺り回されるよりはマシかもしれないが、昼間の暑さを考えると、そう楽ではないだろう。
うっかりと、夏服を調達するのを忘れていた。明日、お嬢さんのシェスタの時間に、探せばいい……。
諦めの溜め息をついた所で、アクロポリスのショーが終了した。原色の光りの乱舞は、LAの喧騒に比べたらまだまだ心穏やかなコケ脅しだと、レンの目に映った。
ボロアパートの寝床を懐かしむわけではないが。車の排気音だけしか、それも防音壁のためわずかなものだが……、聞こえないゲストルームは、少々別世界ではあった。
三十分後、電話が鳴り、紫月にリビングへ呼ばれた。
「僕の妹だ。
彼は明日から君のガードに付いてくれる、見城蓮。無表情がトレードマークだから、怖がらなくていいんだよ」
(……余計なことを……)
昼間の苛立ちがそっくりと、レンの胸の内で再燃した。
「はじめまして、見城さん。舞です」
丁寧に頭を下げると、少女の胸まである黒髪がさらさらと零れ、肩を包んだ。
薄いブルーのワンピースを着た、頼りなくほっそりとした少女だった。
年相応に上背があり、手も足も少年のようにすとんと伸びている。瞳の大きな幼さの残る顔立ちは、赤い唇と長いストレートの黒髪がなければ、少年に見えてしまうほど。
彼女自身、女性であることに目覚めていないのではないか。だとすれば、多少は仕事はしやすい。子供は脅し付ければ言う事をきく。
「彼は非常に優秀なボディガードだ。安心して、好きな所に連れていってもらうといいよ」
少女を見守る紫月の視線は、何よりも優しく無防備だった。受け止める彼女も、素直に、何の疑念もなく大きく微笑み返し、レンにもそれを惜しみなく向けてくる。
そんな疑いのなさに、レンは押し殺しようのない、強い嫌悪感を覚えていた。
◇◇◇
深夜。ベッドに横たわりレンは自分に言い聞かせていた。
「ほんの一週間だ。一週間だけ、紫月の金目当ての誘拐犯か、変態の誘拐団からガードすればいいだけだ。
何も起こらないかもしれないし、起きるかもしれない。
どうなろうと、仕事は同じだ。
お姫様にキズが付かないようにすればいい。
それだけだ」
命を張って? 分別の付かない子供の為に?
湧いた疑問をレンは押しやった。
『ワカラナイ』
この一言は、プロのボディガードの考えるべき台詞では無かった。
◇◇◇
翌朝、レンは電話のベルで起された。時差ぼけの頭は、細い天使のような声に呼び掛けられ、完全に覚醒した。
「見城さん? こちらで、朝食をご一緒しませんか?」
人見知りするのか、恐る恐るといった声音に、レンはひどく恐縮して受話器を置いた。
目鼻立ちのはっきりとした、やや日本人離れした少女の顔立ち。紫月もハンサムの部類だが、あまり似たところが無い。乳白色な肌の透明感といい、形良く尖った顎といい、国籍の判別に迷う容貌だった。黒い瞳と黒髪が東洋の血を示してはいるが、その瞳さえ、よく見詰めると薄く緑がかっていた。間違いなく、もう五年もすれば極上の美人の部類に入るだろう。
(五年後だと、俺は三十四か……)
不謹慎な考えを必死に追い出して、結局昨日のままの黒のカッターシャツに革ボトムでリビングに向かった。
『たった一人の肉親だ』と抜かして、おおっぴらに目尻を下げていた男は、大切な妹と向かい合ってベーコンを口に放りこんでいる。
オフホワイトのチェアとテーブル、降り注ぐ陽射し。幸福な家族の食卓の図である。
「おはよう。今朝の気分は?」
家長は堂々と問い掛ける。
「おはようございます。悪くありませんね」
無表情に答えるレンを、舞は見守っている。
やはり、黒の上下は場違いであった……。
「その格好で出掛けるのかい?」
「お引き受けするつもりではありませんでしたので、これしか……!」
一瞬にして、あたりの空気は張り詰めた。取り返しようのない言葉。レンは自分の間抜けさを悔やんだ。
「舞。レンに合いそうな服を二、三選んでくれないかな。僕とあんまり体型は違わないと思うから」
小声で「はい」と答えると、言われるまま小走りに、少女は奥の部屋へ向かった。
フォークを置いて、紫月はポットを取り上げ、レンのカップにコーヒーを注いだ。
「……申し訳ありません。余計なことを」
コーヒーはカップから溢れて、受け皿に溜まってゆく。
「悪いと思ってくれているなら、水に流そう。
妹には後で説明しておく。
僕も、あまり褒められた手口じゃなかった」
苦笑いも抜けるように明るい男だ。
「これで、五分としよう」
手が滑ったふりでカップをひっくり返し、レンの膝にコーヒーをかけたのは、その直後。
「ちょうど良かったよ、舞。その麻の上下が似合いだな。
レン。すぐに着替えた方がいいよ。コーヒーは、また僕が注いであげるから」
二度と同じ手は食うまいと、心に決めて席を立つレンだった……。
◇◇◇
アテネ名物、早朝の通勤ラッシュをホテルの窓越しにやり過ごしながら、しばらく思案してから、レンは車を使うことを諦めた。
ホテルを出て、レンは舞を左に庇うようにして歩き出す。
最初の目的地は、市内のどこからでも見上げられる、アクロポリスの丘。徒歩で二十分。ガイドブックに載った通りを鵜呑みにすると、そういうことになるらしいが、気ままな散策である。予定は未定、危険は未知数だ。
初めての土地に来たら、まず高い所に登れ。を実行するつもりだ。厳守するなら、白い岩肌を露出させたリカベドスの丘のはずだが、オリンポスの神々への挨拶を先にする。
ホテル正面のシンタマグナ広場を横切る。緑とカフェと、やはり人。通勤客は減り大多数は観光客か。明るい色彩の開放的な服装でお茶を飲み、人を眺めリラックスしている。
仕方なくレンは、麻の上下に釣り合わせるため淡いブルーのワイシャツを着込んでいる。
東洋系特有のしなやかな体格は共通しているが、鍛え方の違いで紫月は優男の部類だ。ジャケットの前ボタンを外しても胸周りがピッタリしてしまうので、拳銃のショルダー・ホルスターは装着不能だった。
左足首の内側に小型拳銃を装着すると、必然的な右手はフリーにしておきたい。よって、左に『お嬢さん』を置く形になってしまうのだ。
ヘロデス・アティコス音楽堂、なる円形野外音楽堂の脇をゆっくり登っていくと、舞の瞳の色が変化していくことを、レンははっきりと目にした。
昨夜、『どこへでも好きな所へ……』と言われた瞬間の微笑みは、ただの無邪気な笑みではなかったらしい。
遺跡が好きなだけではないのだろう。ひどく憧れて、その中へ心を浸すほど、古い石くれや風化した建物に熱っぽい目を向けている。
正反対に、レンを見返す瞳は堅く冴えない。
実際のところ、『何をどう説明したんだ!』と紫月に抗議したいほど、舞の態度はぎこちなく、二人の間には気温とは無関係に冷ややかな風が吹いていた。
「むこうの観光客の一団に同行しますか?
その方がいい案内や解釈が聞けるでしょう? 私は少し離れて追いかけますから」
舞は大きなつば広の帽子を揺らして、うなずいた。
「はい。そうします」
「英語は?」
「大丈夫です。わかります」
レンが二人分の入場料を払うのを待って、トコトコと駆け出してゆく。中年婦人のガイドに交渉をもちかけ、彼女一人で難なくOKを取り付けた。丁寧に一団に会釈をすると、最後尾に紛れ込む。
しっかりした態度に、レンは最近の子供はあんなものかと、妙な納得をした。
カラフルなアメリカ人らしき観光客の中でも、レンは彼女を見分けることができる。
白いスニーカー、白いキュロットに、サーモンピンクのウェストをキュッと締めた長袖のジャケット。白い帽子には赤い幅広のリボン。くるりと舞が振り返った。レンを確認すると、控え目に嬉しそうに微笑んだ。
不器用なことに、レンは紫月のように笑い返すこともできず、ポケットからサングラスを取り出し、かけただけだった。
食い違ったままの歯車。取り返せたはずの信頼を、また手落としていた。
◇◇◇
パルテノン神殿で、舞はツーリストの一団と別れた。彼等は一々驚嘆し神殿を見上げていたが、時間の制約があるのか、高く登る陽射しを嫌うのか、そそくさと次の目的地に向かうので、舞はサヨナラを告げたのだ。
いつの間にかマスコットのように気に入られていたのか、舞を中心に写真を撮りはじめ、大袈裟に陽気なポーズで彼等は別れていった。
誰にでも無条件で愛される娘。
それを『神の娘』と紫月は評したのか?
騒々しい一団が去って、次の人波が訪れるまでの僅かな静寂の中。細い指を巨大な大理石の柱に押し当て、舞は目を閉じた。
「建物の大きさを感じるわ。不思議……」
レンでさえ、巨大な遺跡に圧倒されていた。
太い円柱はガイドの説明では十メートルの高さがあるという。破壊と風化に見舞われる以前では、その上に石の屋根が、華麗な彫刻装飾を伴って乗せられていたというのであるから、大変な建築技術である。それが二千五百年前の偉業というのだから、凡人でも畏怖の念を覚えずにはいられない。
なぜ? 何の為に?
ガイドは、ツーリストたちの驚嘆に答えた。
『女神アテナの為です。古代ポリスとしてのアテネは、アテナを守護神に祀り、独立国家としての権威を誇示する意味も含めて、パルテノン神殿を建築したのです。
アテナへの感謝と、神々と人間との永遠の盟約の象徴でもあるのです』
アテナ。オリンポスの最高神ゼウスを父親に、知恵の女神メティスを母親に持つ、知恵と平和を守る戦いの女神。
彼女の知恵は多岐に渡り、紡績や建築などの産業を守護し、家畜を保護し、予言や話し合いで人々をまとめ、アテネの危機には敢然と敵に立ち向かったという。
同時に女神アテナは、神々の中では最も潔癖で、永遠の処女として生きた。壁画に描かれる女神は、裾の短いスカートを翻し、少年のように鹿を追っているという。
瑞々しい女性神でありながら、それを忘れ去ったように、戦いの場に駆け付ける。
……守るべきものの為に。
フワリと、乾いた風に舞の髪が揺れる。
背後から来るツーリストのざわめきに追いたてられるように、二人は神殿の石畳を降りていった。
幻を追いかけるような視線をしている。
それが、レンの気にかかった。
石段を踏み外しそうになった舞の腕を取ると、目が覚めたように彼女はレンを見上げた。
「少し休みますか?」
さすがに日陰が恋しくなる時刻だ。
「それとも、このままアクロポリス博物館に向かいますか。喫茶室がありますよ」
「私、平気です。ぼんやりしていて、ごめんなさい」
全くもってよそよそしい。
「……でも、ここで少し休みます」
日陰で人の群れからは少し離れた場所で、彼女は立ち止まった。
下界といっていい、アテネの喧騒の街を一望に見渡せる。アクロポリスは、まさに神々の展望の為に存在していた。
気付くと、難しい顔で、舞がレンを見詰めている。
「どうして、女性のガードを拒否なさってきたんですか?」
さてと……。レンは、そんなことを舞が気にしていたことを、予測していなかった。もっと別の、無表情で冷ややかな態度や、この仕事を好ましく思っていない事実に、戸惑っているものだと思い込んでいた。
「お兄さんは、そこまでしか話していないんですか?」
コクンとうなずいた。
「そういう取り決めで五年間フリーで仕事をしてきたから、急な依頼に少し腹を立てているだけだ、と」
自分に都合のいいことだけ告げた紫月を、レンは一時、心底呪った。
「海は好きですか?」
「? 好きよ? 大好き。昨日まで、サントリー二島の別荘に居たんです。父のお友達の別荘に」
「地中海の海は青くて波は静かでしたか?」
「ええ。とっても」
「でも、いつも海が穏やかなわけではないんです。人の命を簡単に奪ってもしまいます」
レンは、舞と同じく無邪気に尋ねる女性たちに何度かしてきた、例え話しを引き出した。
「俺には三つ年上の姉が一人居ます。頭が切れ、体格も良くて、子供の頃は喧嘩をしてもいつも負けるのは俺の方でした。
姉が十六の時、波にさらわれ海で溺れかけた子供をたった一人で救助して、岸まで泳いで連れ帰ったくらいタフで。
あの日の海は少し荒れていて、助かった途端、姉でさえ力尽きて倒れてしまうくらいひどいものだった。
俺が、無鉄砲すぎると病室で怒鳴り散らしたら、一言も言わずにあいつは俺を殴り飛ばした。
言い訳も説明もしなかった。
でも、必要なかった……。俺も、あの場に居て、一部始終をただ見ていたんだから。
あの時周りに居たのは、小さな子供ばかりで、俺と姉貴が一番年上だった。
波を被る桟橋で、俺はロープのついた浮き輪を投げただけだった。
姉貴は当然のことをした。百パーセントの危険だろうと十パーセントだろうと、あの時、ああしなければ、人一人が死んでいた……」
舞は沈みこんで、耳を傾けている。自分もその場を目撃しているかのように、両手を握り締め長い睫を伏せ。
「あいつは俺を殴った後、一言だけポツリと呟いた。
『お前だったら、わかってくれるだろ?』」
わかってはいたが、『弱い女』に先んじられた事実が、少年のレンには悔しすぎた。
「それから両親が駆けつけてきて『二人とも無事だったから良かったものの』の前置きをしてから、こってりと姉貴を叱った。
誰もが『そうしなければならない状況だった』と口ではわかったフリをしながら、姉貴を無茶な奴だと決めつけて、何かと押さえ付けようとしはじめた。
女の子なんだから、が決まり文句だったな。
それでも、姉貴の元気の良さは変わりがなかったが、ほんの少しだけ窮屈そうだった」
「私も『女の子なんだから』なんて言われるの、嫌だわ」
レンはやっぱりと、内心で溜め息をついた。
「でも、女性であることには変わりがないんですよ?
どうやったって、男に比べれば力は弱い」
『だから男の後ろに隠れていてくれればいい』
男女全面平等。を望んでいるらしい舞に、そう言い放つのは、逆効果であろうとレンは即断した。例え話の効果は十分だった。舞はおとなしく、か弱い女性で居るつもりはないのだ。レンが今まで回避してきた人種だ。
これでテストは終わった。まずい結果だ。
「わかったわ!」
パッと、舞の顔が輝いた。
「? 何がです……?」
「見城さんは優しいのね。フェミニストなんだわ」
紫月と同じことを言う……。
「良かった。酷い人かと思っていたの。
女性は劣等だ、なんて真剣に考えている人かと思った。そんなふうに思われているの、悲しいでしょう?」
「劣等だなんてことは考えてはいませんよ」
予測できない危険人種であるとは、確信している。安心して打ち解ける舞の前では、そんな感情を心の奥底に隠すことにした。
「信用してもらえましたか?」
「勿論。信頼しています!
兄さんが選んだ人だもの。絶対に」
力を込める舞から、レンはさりげなく顔を逸らした。増してゆく、純粋すぎる輝きに引き込まれそうだった。
「帰りますか? それとも他にも?」
これ以上付き合っていると、レンは自分自身が変質してしまいそうな錯覚があった。
「動物園を見つけたんです」
悪戯っぽく微笑む少女は、ひどく幼い表情に変わっていた。
「?」
動物園の地図は、渡された書類には無かった。
「ピレウスの港から市内に戻る途中で、見つけたんです。
小さな動物園みたいなんです。でもありました」
「ここはもういいんですか? 博物館は?」
ほんの少し舞は考え直して、うなずいた。
「ここは近いからいつでも来れるでしょう?」
「なら、てっとり早く、周りましょう」
子犬のように元気よくうなずく少女に、レンはきつい頭痛を覚えていた。
◇◇◇
「くそっ! 動物園の配置なんかレクチャー受けてないぞ……! 大体、お子様は守備範囲外だ……!
こんなところで襲撃されたら、どこをどう逃げればいいかさっぱりだ。っってのに、あのガキ……」
無表情で冷淡がトレードマークのレン、のはずだったが。すでにかなぐり捨てている。幼稚園児の見学行動の如く、紫月の宝石は、はしゃぎ回っているのだ。
カワイー、だの、小っちゃーい、だの。日本語で喚声を上げるものだから、騒音と受け取るのはレン一人。若いギリシャ人夫婦の連れている双子の四歳児と一緒に駆け回る姿に、周囲の受けは最高。ベリー・キュートの嵐であった。
「……誘拐犯でも変態でも、狙ってる奴が居るんなら、いっそのことお嬢さんを檻にでもブチ込んで、見たがる奴だけ見させて、穏便にカタをつけちまえば早いのに……」
物騒な企みも日本語で呟く限り、妄想の範囲内である。
視界に入るのは、気のない顔の動物たち。檻の中から、悲しそうな目を向けている。
暑さにうなだれているだけ、というわけでもない。木にぶら下がったオランウータンも、ワニも、百獣の王ライオンも、所在無く眠りこけている。こんな場所には用はないと言わんばかりに。
行き過ぎるレンを見送る、物言いたげなまなざしが、古い記憶を手繰り寄せる。
まただ。『彼女』の幻が、レンの目前に浮かんでくる。
静かな湖のような青い瞳。
忘れることの出来ない、真紅に染められた記憶。
六年前。レンはFBIに所属していた。警視庁から研修出向中の身分で二年間の予定だった。捜査現場へ回り、ベテランの同僚たちに鍛えられ、その四ヶ月後。
レンは『彼女』と巡り合う。
『彼女』は年老いた婦人で、十一年前に夫を無くし、寂れた街に一人で暮らしていた。
何の因果か、彼女は大物マフィアを窮地の落とすことが可能な重大犯罪を偶然目撃し、唯一の重要証人となってしまった。
レンのチームは彼女の護衛で、彼女は安全に守られるべき人物、という関係だった。彼女は警備上の必要性から、一歩も家を出てはならなかった。
背の高い痩せ型の婦人は、学歴は無いが穏やかな見掛け通りに聡明で、ガードたちには最も協力的なVIPだった。
彼等を気遣い、ずっと同じ部屋に、同じ肘掛け椅子で、小さなテレビを見つめる姿があった。その背中をレンは、『とても寂しそうだ』と気にかけ、マフィアの口封じの襲撃など永遠に起きなければいいと、祈ってさえいた。
迎えた終幕。
ベテラン捜査官さえ、生まれて初めてだったと吐き捨てるほどの、壮絶な銃撃戦だった。暗闇に朱色の弾道が閃き、小型のロケットランチャーが壁を破壊した。
婦人が大切に手入れしてきたささやかな庭、暖かい気配りに包まれた小さな屋敷は、硝煙の臭いに満たされ血に染まった。
レンはそこで、司法の失墜を目撃することとなる。
その理由を、レンには理解できない。
彼等FBIは正義を守る為に、命を捨てる覚悟であった。事実、一人が殉職し、レンを含めた数人が重傷を負った。
なのに。婦人は流れ弾を受けて、襲撃の最中、絶命した。
『気の無いツラだな。お前、もう死んでるんじゃないのか?』
『かもしれません……』
『まあ、いいことだ。一度死んでしまえば、もう二度と死を恐れなくなるというのが、この世界の相場だ』
病院のベッドの上で、レンは死を渇望していた。
優しかった婦人の命と取り替えることができたなら、FBIは屈辱を免れ、レンの心は充足に満ちていただろう。
傷の痛みも含めた、苦く辛いばかりの現実と、甘く高潔な理想に満ちた死への誘惑。
まだ血の滲む胸部の傷口を突いて、叩き起こしたのは屈強な体躯の中年男だった。
元FBIで、捜査現場に用も無く堂々と顔を出していた。鋭い目付きでよく笑い、腹の底では何を考えているか知れない男。
『お前の射撃の腕は惜しい。それにその動きのいい体も滅多に無い』
『私はバイキングでも、ゾンビでもありません……』
『やり直してみたいなら、俺に付いてこい。もう一度、叩き直してやる。最高の死に場所を与えてやる』
やり直したかったのではないのに、いつの間にか、祖国や家族、友人、学歴、肩書きまでも捨てていた。
研ぎ澄まされた肉体で生まれ変わったレン・ケンジョウは、迷わずに、フリーのボディガードの道を選んだ。
同時に『女性のガードは引き受けない』と決意した。
「あんな目をさせたくはない。おまえたちとは、あの子は違うんだ……」
舞は生きている。生き生きと自由に、一瞬たりとも止まることなく。
等しく誰もが与えられている生を謳歌している。
悪であろうと、善であろうと。遮り押さえ付ける権利は無い。